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短編小説「麻子とアキ 第一話 トラブルメーカー」(1)


 勝手な言い草なんだ。もし、彼女の口にした言葉を一言一句書き留めて、それを箇条書きにして相手に見せたらきっと裁判沙汰になるだろう。けれど、彼女がその薄い唇を震わせて雨に濡れた小犬みたいな声を搾り出してそれを言うと、それがまかり通る。道理が引っ込んで無理が通るんだ。麻子(あさこ)はひどい嘘つきだから。
 最近は大人しかった。今朝、出社前に見た彼女はぼくがローンで買ったソファに足を投げ出して、ソファからはみ出した爪先でスリッパをブラブラさせていた。口に体温計を咥えて、基礎体温を測るなんて言うけど本当はスイッチが入っていない。月サイクルで一覧表を作るなんて彼女には無理な相談だ。彼女には致命的に計画性が欠けている。
 ぼくが部屋を出る時、彼女はつまらなそうな目をして視線でぼくを追いかけた。咥えた体温計を上下に揺らす。それがいってらっしゃいの合図。愛想もない。
 仕事を終えて六時に部屋に帰ると、留守番電話の赤いランプがちかちか言っていて、再生を押すと麻子の泣き声がスピーカーから漏れてきた。麻子の声の後ろに聞こえるのは有線のポップソング。きっとデパートだ。ぼくは肩を落とす。麻子はやっぱり嘘つきだ。また同じことをしでかした。
 スーツを脱ぐ暇もなく、麻子を引き取りにぼくはショッピングモールに向かった。この時代にぼくがまだ固定電話を所有しているのは麻子がそれを望んだからだ。麻子はひどいやきもちやきで、自分以外の誰かがぼくの連絡先を知ることを極端に嫌がる。だからこういう場合、麻子からのSOSはぼくのスマホではなく家の電話を鳴らすことになる。
 モールは帰宅途中の会社員や部活を終えた高校生で混雑していた。受付で用件を告げると従業員用の詰め所に案内された。見世物になる前の裸の商品や空になったダンボールが散乱している狭く雑多な小部屋だ。書店の名が入ったエプロンをひっかけた中年男がテーブルの向こうで渋い顔をしている。ぼくに目を留めると顎で示して対面の椅子にぼくを座らせた。ぼくは溜息をつきながら(おそらく)書店の店長の顔を見た。その横に麻子がうなだれている。
「今度は何をしました?」
 ぼくは努めて事務的にそう訊ねた。店長はぼくの質問に答えずに忌々しそうに唇をつぼめる。そして麻子を見る。麻子の長い睫毛がピクリと動いた。麻子は店長に見えないよう、正面のぼくを盗み見ている。笑ってるみたいに見える。
「万引きですよ。あんたいくつだ? 恥ずかしくないのか」
 麻子は今年で二十五だ。それなのに嘘つきで、盗癖まである。

   ❃

「しくじった」
 麻子の第一声がそれだ。バッグに詰め込んだ(読みもしない)本の二倍の代金を払って、丁寧に頭を下げて、二度とやりませんと麻子に呟かせて、ようやくぼくらは詰め所から解放された。雑貨のフロアに出ると、麻子はさっき叱られたばかりなのに気にもせずに店内を物色する。入り口で戸惑っているぼくに駆け寄って強引に腕を引っ掴み、ニヤニヤしながらぼくを見上げて言ったのが「しくじった」だ。それだけで、「今回は」が省略されてるのがわかる。
「おまえいいかげんに更正しろよ。ガキじゃないんだからさ」
「ねえねえアキさん。これ見て、バリ島四泊五日ペアで二十二万円。格安です」
 麻子が旅行雑誌の並んだラックを指差して言う。ぼくの名前は央太(おうた)だけど、「オータだからオータムでアキさん」なんだそうだ。麻子は無邪気に笑っている。こいつは悪意の塊だからその笑顔は決して無邪気じゃないんだけど、顔形仕草だけを見ると無邪気なんだ。だから騙される。まるで駄菓子屋で売ってる原色の菓子に含まれた食品添加物みたいに、一見何の害も無さそうなのに食べ続けると中毒する。麻子はそんなやつだ。
「だってさ、そろそろ三年じゃん。記念だよ」
「何の」
「忘れたの? ひど。あたしとアキさん出会った日から」
「いつだよ、それ」
「あたしは覚えてるよ。五月の五日。子供の日。会ったのは池袋の東口。はじめに声をかけたのはアキさんでした」
「だから?」
「だからバリ島に二人で。記念日をワインで祝おうよ」
「二十二万は格安じゃないよ」
「貯金下ろしてさ」
「やだね。さっきだって読まない本に大枚叩いたんだ」
 麻子は途端にむくれ出した。ぼくに絡めていた腕をするりと解いて、頬を膨らましてツカツカ歩いてエレベーターに向かう。なんて気分屋だ。もう慣れたはずなのに、それでも時折麻子の態度に苛立ちを覚える。身勝手で世間知らずで男を財布としか思ってない。客観的に見たら麻子はそういう下種で最低な女だ。
 けど、主観のぼくはそんな麻子を好きだと言ってる。

   ❃

 その日のぼくと麻子は珍しく休みが重なって、特にすることもなく部屋でダラダラしていた。麻子は未練がましく旅行雑誌をパラパラ捲っていて(これはちゃんと買ったものだ)、ぼくは麻子と同じ会話を繰り返すのが嫌でムカつく芸人が出ているテレビを無音にして観ていた。午前の十時くらいか。画面の中で芸人が場の空気を無視していきなり持ち芸を披露し始めた。客席は四十代から五十代ばかりで芸人の芸はウケがよくない。ぼくはそれを見て非常に倦んで、日の光を入れて気分を変えようと厚手のカーテンを引いた。レース越しに強い日が差し込む。斜めに差し込む光なんて、夕日以外じゃずいぶん久しぶりのような気がする。
 ついでに伸びをしようとした瞬間、部屋のはしっこのラックの上の固定電話が鳴り出した。麻子がここにいるのに家の固定電話が鳴るのはとても珍しい。麻子が気だるそうな顔をして鳴っている電話器を見ている。鳴り出してから雑誌のページをまたくくった。
「麻子、おまえのが近いんだから電話出ろよ」
 麻子は異国の言葉でも聞いたみたいに呆けた顔をしてぼくを見る。何だこいつ。ぼくは腹を立てながら、それでも自ら歩いて受話器を上げた。つい刺のある声になってしまう。
「もしもし」
〈シバさんいる?〉
 ぼくより遥かに刺のある無愛想な声がいきなりそう言った。ぼくは訝しげに眉間にしわを寄せた。麻子宛の電話だ。麻子宛の電話が麻子のスマホにじゃなく、ぼくの家の電話にかかってきた。ぼくはさらに訝しんで受話器を握ったまま麻子を見た。麻子は雑誌を広げたまま、目だけでぼくを見ている。無邪気な目。
「だれから?」
 ぼくは無言で首を振った。電話の声が苛立たしげに舌打ちした。
〈シバさん頼むよ。いるんだろ?〉
「あんただれです」
〈いいから。シバさんに用があるんだよ〉
「だから名乗りなさいよ」
〈おれは本条ってんだけど、シバさんに確認しても知らないって言うぜ。初めて電話してるんだ〉
「どんな用件ですか」
 電話の声が一瞬押し黙った。探るように声を低めて言う。
〈あんた、シバさんの彼か。峯山(みねやま)央太とか言う〉
 ぼくの名前を知っている。
「そうだけど、だから何だよ」
〈シバさんは元気か〉
「知らないね。あんた何者だ」
〈シバさんに替わってもらうと話が早いんだがなぁ。いないのか?〉
 ぼくはチラリと麻子を盗み見た。ぼくの対応がつっけんどんだからだろう。麻子にしては珍しく、ちょっと不安そうな顔をしてぼくを見ている。読んでいた雑誌は閉じられてソファの上に置かれている。
「いない。麻子に何の用だ」
 電話の声がプッと笑った。非常に癪に障る笑い声だ。黒板を爪で引っ掻くのと同じ感じがした。
〈そうか。シバさん留守か。しょうがねえなあ、あんたでいいや。なあ峯山さん。あんた今いくら出せる?〉
 何の話だ。喉の奥が詰まる。電話の男は「ん?」と気に障る声でぼくの返事を促した。ぼくは意識して冷静を装う。落ち着け。こういう時は焦ったら負けだ。
「何の話だ。警察に通報するぞ」
〈何だよ。あんた、気ぃ小っちぇえなあ。いきなりそれかよ。切り札のつもりなんじゃないの? 最初に出しちゃだめだよ〉
 ぼくは非常に焦りを感じて受話器を叩きつけた。派手な音がして麻子がビクリと肩を震わせる。
「どうしたの?」
「何でもない」
「だって、アキさん変だよ。すごい汗かいてる」
「何でもないって。頭のおかしい奴から電話がかかってきたんだ」
 その瞬間、また電話が鳴り出した。ぼくは自分でも滑稽に思えるほどびっくりして、受話器に伸ばそうとした腕が小刻みに震えた。それを確認してさらに焦った。
「ねえ、アキさん。あたし出ようか?」
「だめだ」
 ぼくは麻子に強く言って受話器を上げた。途端にさっきの男の怒鳴り声がぼくの鼓膜を震わせた。
〈何切ってんだこのやろう。峯山央太! 峯山央太!〉
 怒鳴り声のままでぼくの名前を連呼する。ぼくは声を失って受話器を耳から遠ざけた。大きく息をついて気を落ち着けてから受話器を耳元に持っていくと、男はぼくの個人情報を次々に捲くし立てていた。ぼくの住所、ぼくの電話番号、ぼくのメールアドレス、銀行と支店名、クレジットカードの銘柄、勤めている会社名、部署名、ぼくの母の名前、ぼくの父の名前、妹の名前、実家の住所、電話番号、ぼくの通院歴まで。ひととおりぼくの情報を並べ立てると、男は息もつかずにそのまま言った。
〈今度切ってみやがれ。今の全部、売るぞ〉
 ぼくは何度もまばたきしていた。目がものすごく乾く。いつの間にか麻子がぼくの後ろに立っていて、麻子の右手がぼくの肩に乗っていた。振り向いて顔を見ると不安を通り越してすでに泣き顔だ。麻子の右手の体温がなければぼくもその場で泣き出していたかも知れない。
「何の話、なんですか」
 いつの間にか敬語になってる。
〈おう、それで、あんたさっきの質問に答えてないよな。即金でいくら出せる?〉
「だから、何でぼくがあんたにお金出さなきゃなんないんです」
〈おう、そうか。説明いるか。なあ、ほんとにシバさん留守か? シバさんいると話早いんやけどなぁ〉
「だから留守だって」
 麻子の右手に力が入った。ぼくは麻子を見ずに首を横に振る。
〈そうかあ。あのな、シバさんな、ちょぉっとばかし悪い立場にいるんや。わかるか? シバさんが悪いせいで、今、おれが困ったことになっとる〉
 ぼくは滝のように汗をかいている。
〈シバさんの手癖の悪さ、あれ、何とかならんかなぁ。シバさん帰ってきたら聞いてみてほしいんやけど、おれの財布、三十万入ってたんやけど、それがなくなってた〉
 麻子が後ろでぼくを見ている。
〈してやられた。こないだなぁ、おれ町歩いてたんやけど、掏られたんや。財布。シバさんに〉
 ぼくは咄嗟に嘘だ、と叫ぼうとした。けど声が出ない。麻子は確かに手癖が悪くて何度も万引きで叱られている。警察を呼ばれたことも何度かある。けど、麻子は掏りはしなかった。店から品物を取ることはあっても、直接現金を狙うようなことは一度だってなかったんだ。
〈まあ、そんときはな、シバさん失敗しておれに捕まってな、その場で財布返してもらったし、シバさん出来心や言うし、何度も頭下げて謝るもんやから穏便に済ましたってわけや。おれも鬼やないし、美人の姉ちゃんの人生台無しにするのもどうか思うてな〉
 見まいと思うのに視線が麻子に向いてしまう。
〈けどな、さっき財布確認してみたら、金がのうなってるんや。酷いわ、シバさん。それで、シバさんから預かった連絡先に電話したっちゅうわけや。なあ、あの金な、すぐ必要なんや。今日これから品入れがあるんやけど、その代金でな。すぐ必要なんや。返してもらえんかなぁ〉
 受話器が手のひらに張り付く。これは脅しだ、冷静になろうと頭では思うのだけど、喉はカラカラだし、足はガクガクする。ぼくは搾り出すように声を出した。
「あの、麻子に確認したいんです。あとで、こちらから連絡したいんですが」
〈峯山さんが連絡するんか?〉
「はい」
〈まあええけど、急いでな。時間ないんや。今日の正午の約束で、それに金持っていかんともうわやや。そうなったらおれ、困ったことになる。こっちから連絡する〉
 おれは本条や。五分後にまた電話する。そう言うと、思いのほか優しく受話器の落ちる音がして、回線が切れた。ぼくはたっぷり二秒もかけてまばたきをした。このまま目が開かなくなるんじゃないかと思うくらい、強く目を閉じた。
「アキさん?」
 麻子が、手術室の前で結果を待ってる家族みたいな顔になってる。
「麻子、おまえ、掏りはしないよな」
 疑問符を付けようと思ったのに、語尾が下がって問い詰める口調になった。麻子は大きく目を開いてぼくを見てから、遊園地のフリーフォールの落下を追っかけるみたいに視線を落とした。また汗が噴き出す。
「やったのか?」
 確認したくない。だけど口が止まらない。
「やってないよ」
「本当か?」
「やってないって。アキさん、変だよ。どうしたの? あたしそんな悪い子じゃないよ。アキさん知ってるでしょ? ほら、池袋で最初に会ったときさ、あたし気分悪くって柱のとこにしゃがみ込んでてさ、アキさんどうしたんだって声かけてくれて。あたしが二日酔いですって言ったらアキさん呆れ顔でさ、あのときあたし思ったんだよ、こんなに大勢の人がいるのにアキさんだけが声かけてくれたって。だからあたしねアキさんは特別で」
「どうしてそんなことした?」
 麻子が唇を震わせた。縋るようにぼくを見て、伸びてきた麻子の手をぼくは振り払った。麻子が鞭で打たれたみたいに肩を震わせて、手を引っ込めて胸のところで縮めた。
「だって。もうすぐ記念日だから」
 麻子の頬を張る自分の絵が浮かんだ。押し止める。今は麻子を叱っている場合じゃない。本条は五分後に電話をかけると言っていた。後二分しかない。
「今、その掏られた人から電話がかかってきた。ほんとうに金を抜いたのか?」
「抜いてないよ」
 麻子が今度はぼくの目を見て言った。
「なあ、麻子。ホントのこと言ってくれ。三十万、抜いたんだな」
「抜いてないってば! 確かにあたし財布掏ったけど、その場で返したもん。中身なんて見てないし、怖そうな人だったし、あたしたくさん謝って許してもらったもん」
「相手は金が無くなってたと言ってる」
「嘘だよ。あたし、財布の中身見てないもん。掏った途端に腕掴まれて、そのまま返したんだから抜けるわけないじゃん」
 麻子はすでに泣き出している。麻子の返答とさっきの電話の内容を受けて、ぼくの中ではもう答えが出ている。麻子が三十万抜いていた方がまだ良かった。麻子は本当にそのまま財布を返したのだ。だけど本条は中身が空だと言っている。
 このままだと際限なく要求額が増えていくだろう。
 ぼくと麻子は嵌められたのだ。
「わかった。麻子は金を抜いてない」
 麻子が涙を一杯に溜めた目でぼくを見上げた。
「だけど、掏った相手が悪かった。おれたち、嵌められたみたいだ」
 電話機が鳴り出した。



(続く 「麻子とアキ 第一話 トラブルメーカー」2へ)


※涌井の創作小説です。2回の連載です。

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