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クッキーはいかが?

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1200文字以下のエッセイ集。クッキーをつまむような気軽さで、かじっているうちに終わってしまう、短めの物語たち
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#考え方

さすれば、りんごの重さも

12月のわたしは、りんごだった。 その、なんの前触れもなく、りんごは現れた。 28〜30個って書いてある箱がふたつ。 主食を、りんごケーキ(焼いたりんごをホットケーキミックスでとじるやつ)にして、剥かれたりんごにしても、到底食べ切れる量ではなかった。 ということで、12月のわたしはりんごだった。 友達に会う予定があるたびに、かばんにりんごを詰めて電車に乗った。 重たいのに。散歩をしたいのに。 左肩にいつものトートバッグ、右肩のエコバッグにりんごを詰めて。 相手に迷惑で

安くしとくよ

「店のお客さんでさ、仲良くなってもらった人のとこ、行こうと思って」 ドッグフードを売っている英太郎は、笑顔で言った。 ちょうど、美容院の話をしていた。 「犬飼い始めたばっかりでさ、いろいろ知識がないから教えてもらえて助かったって言われて」 で、そのひとが美容師だったらしい。 なるほど、良いご縁だ。 「すげえ安くしてくれるって言うから」 そして、英太郎はもう一度笑った。 * 「え、そのひとのところいくの?」なんて吐き出しそうな言葉を飲み込んだ。 ほんとうのほんと

めんどくさいは、本音を隠している

「”どうして?”って、尋ねるようにしているんだ」 電話から、パンさんの声が漏れ聞こえてくる。 パン屋の近くに住んでいたパンさんとは、一度だけ会ったことがある。 もう何年も前で、顔も思い出せない。 パンさんは子育ての話をしているようで、「尋ねるようにしている」とそう言っていた。 パンさんのことはあまりよく知らないけれど、子供を育てているような姿があまり想像できなかった。 でもきっと、子供を育てているような想像ができる友人、というのが少ない。 わたしたちは子供のときに知り合っ

小さくて近いところ

朝、もにゃもにゃとパソコンの前に座る。 出勤前に、書いて、弾いて、を終わらせたい。 別に、朝が得意というわけではなくて 夜が眠かっただけで わたしはここに座っている。 * ものを書く能力の半分くらいは、適切なBGMを選ぶ能力である。 というのを、わたしは何度も噛み締めている。 書きたいことがあるから書いている、ということは稀で だいたいはどこかから、引っ張り出す。 ようやく書くことが決まっても、うまく集中できないことも多い。 没入の手助け、が音だと思っている。 *

適切な胃袋

ダイエットをしていたら、自然と食べられる量が減ってきた。 おかげでわたしは、「おなかいっぱい」という代え難い幸福を手放すことなく、今日に至っている。 だって、我慢し続けることって、どう考えたって美しくない。 * じゃあ来週、食べ放題に行くって言われたらどうしよう。 最近は、そんなことを考えている。 それも、超高級なやつ 自分じゃ一生行かないような場所に連れられて、奢られると言われたら 一度だけ連れてゆかれた、椿山荘のランチのことを思い出している。 なんだか雰囲気呑まれ

ハッピーセット

うまくいかないなあ、と思う。 ピアノ、 毎日弾いているのに。 * そもそも「うまく」の定義がよくわからない。 あまいものをたくさん食べることがしあわせな人もいるように 辛いものを求めて旅をするひともいる。 そんなふうに「うまく」って、人それぞれ違うから なにかきっと「あまい」とか「辛い」みたいに 定義付けしないといけない。 ということに気づきながらも、 わたしはなにも定めることなく、ふらふら弾き続けている。 宛てのない旅 結局、ピアノと他人になりたくないだけの

或る夜、努めない話

逃げよう、と思った。 結局したことは「何もしないこと」と「眠ること」だったけれど、というのが事実だけれど その夜、わたしは逃げた。 最初は、少しのんびりしよう。から始まった。 それからどれくらい時間が経っても、スッキリと起き上がることができなかった。 ごはんを食べても、ソファーからベッドに移動して昼寝をしても、ラジオ体操をしても、お風呂に入ってみたもダメだった。 むしろ、次第に身体が重たくなっていった。 いま思えば、火が消えてゆくようだったと思う。 帰宅したすぐあとは

ほんものの傷

化粧をしていたら、人差し指の異変に気がついた。 なんだろうと思ってつついてみたら小さな傷で驚いた。 わたしはずっと、見覚えのない傷を作ってしまうタイプ。として生きてきた。 だからめずらしいことではないのだけど、毎度律儀に驚いてしまう。 ほんとうに、心当たりなんてないんだけどなあ。 ちょっと太いボールペンの、鈍い先端みたいな傷だった。 よく見ると、うっすら血が滲んでいる。 絆創膏を貼ろうか悩んだけれど、しばらく見つめても血は滲んでいるだけだったから、そのままにした。 それ

80億年後、地球はなくなる

最近、プラネタリウムを見ている。 ひまつぶしみたいに。 座れるし、眠れるし 何度見ても、悪い気はしない。 (一度聞いた話を、どうしてあんなにも覚えていられないんだろう) その日は、地球の過去と未来というタイトルで 地球の成り立ちから、滅亡までの話だった。 なにもない宇宙から、 ガス爆発のようなものを繰り返して、地球が生まれて 磁力が発生したり、水ができたりして、それから生命が生まれて、っていう話だった。 「もしかしたらこのとき、地球と同じように生命が発生した星が生まれた

適切な視線と距離

「息、うまく吐けなかったですか?」 そう問われて、わたしは困ってしまった。 それは病院の出来事で「歩くと息苦しさがあるんです」と伝えたら、脈とか血圧を測られて。 値が正常だったので「呼吸の検査しましょう」と言われて 向かった先で、何やら太い管……管と言うには太すぎる、くわえるには適さない、ストロー50本分くらいの物体を一生懸命口に入れて、「息をこぼさないで」「口をすぼめて」「吐いて」「止めて」「吸って」っていうのを うまくできるひとって、この世に存在するのだろうか。 すご

錯覚ノック

「よくなるかもしれないから」という、その声だけ覚えている。 そして、トントン、と二の腕を二度、叩かれた。 良い先生でよかった、と思う。 週に一度病院に通って、たいそう痛い治療で、 「痛いって言ってすみません」 「それで耐えてるんで」 と強がって、最後には必ず泣く。 この人だって、わたしを泣かせたいわけじゃないのに申し訳ないなあ、と思う。 最近は、言わなくてもティッシュを差し出してくれるようになった。 そしてついに、肩を叩かれた。 * 肩を叩かれるとほっとする、ということ

明日へのギフト

「今日は家事、サボります」 頭を下げている絵文字と一緒に、メッセージを送る。 きっと相手は、何をサボっているかですら気づかないことに、わたしは気づいている。 部屋の掃除をしなくたって、花の水を替えなくたって、目に見えるものじゃない。 シンクに置きっぱなしのお皿を見て、「これのことね」と思うかもしれない。 わたしは、わたしを許すためにメッセージを送っている。 「むりをしなくていいよ」と言われているし、休んだってべつになんてことはない。 ただ、わたしのため。 「よし、お風呂入

そのままのわたし

「よっしゃ」と立ち上がる。 「それじゃあ」と言うこともある。 立ち上がって、動き出そうとする。 「むりしないでね」 その声は、じんわりと響いた。 コーヒーみたいにやさしくて、ちょっと苦かった。 * その言葉は、あたたかいのに難しい。 「むりをしない」ってなんだろう。 「サボる」のと何が違うんだろう。 「休みたい」と「休むべき」、線を引くことは永遠の課題のような気がする。 むりしなければ、なにもできないよ 「好きなこと」を好きなままでいるのって、どうして難しいんだろ

クッキーちょうだい

すごく不思議と、 でもかなり日常的に、 「言ってはいけない」と思うことが、たくさんある。 のだと思う。 例えば、 わたしは同居人に「片付けて」って言えない。 言ったら気を使わせて、この家で居心地悪くなったら、それがいちばん悪いなあ。 と、勝手に思っている。 そんな話を友達にしたら、 「恋人と別れるときにね、”後学のために嫌だったことを言い合おう”ってしたときに  ”蛇口キツく締めすぎ”って言われた」 ていう話は、今でもじんわりときてしまう。 わかるなあ。 そういうことを