見出し画像

錯覚ノック

「よくなるかもしれないから」という、その声だけ覚えている。
そして、トントン、と二の腕を二度、叩かれた。

良い先生でよかった、と思う。
週に一度病院に通って、たいそう痛い治療で、
「痛いって言ってすみません」
「それで耐えてるんで」
と強がって、最後には必ず泣く。
この人だって、わたしを泣かせたいわけじゃないのに申し訳ないなあ、と思う。
最近は、言わなくてもティッシュを差し出してくれるようになった。
そしてついに、肩を叩かれた。

肩を叩かれるとほっとする、ということには、とっくに気づいていた。
これはほんとうに不思議だけれど
大丈夫だよ
お疲れさま
よく頑張ったね
もう何も考えなくていいよ
などなど、
肩を叩かれると、なんだか都合よい言葉で飲み込めてしまうし、なんだかやさしくされたような気分になってしまう。

30代も半ばになろうとする女を毎週泣かしている医者のことは大変気の毒に思うけれど、肩を叩かれたときは、なんだかやさしくされたような気がした。
「すまん、でもだいじょうぶだ」と、泣きながらもわたしは勇ましく思っていた。

誰かに肩を叩いて欲しい、と思う。
ときどき、思う。
「自分の中」だけだと、処理できない、と思ってしまう。
生産性が下がる。
無意味にぐるぐるする。
抜け出したい。
「助けて」というのが正直な感情のとき

わたしは最近、ノックをするようにしている。
二度
指先で

手の甲だったり、おへそだったり、脇腹だったり、二の腕だったり
そして、誰かに肩を叩かれたと錯覚する。
わたしはほんとうにまぬけなので、「錯覚する」と決めたら、きちんと錯覚するのだ。
そして、深く息を吸う。
ちょっと遠くを見たり、意識をぐわりと違うところへ持っていったりする。
そうすると、ちょっと落ち着く。
格段に救われるわけじゃないけれど。
ちょうどいい魔法だ、と思っている。

このもやもやが晴れるまで
わたしはこのノックの錯覚と一緒に、騙されながら生きてゆくつもりでいる。

少なくともわたしは、
騙されずにまっすぐと生きてゆくことより
都合よく騙されながら、ふらふらと生きてゆくほうが、なんだか合っているなあ、と思ってしまうのだ。



【photo】 amano yasuhiro
https://note.com/hiro_pic09
https://twitter.com/hiro_57p
https://www.instagram.com/hiro.pic09/







スタバに行きます。500円以上のサポートで、ご希望の方には郵便でお手紙のお届けも◎