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海外放浪記(21世紀続編)

日本的なるものと私との距離感。それがために放浪を続ける今。

前編で全く触れられなかったので、ここに続編として振り返ってみるものです。

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情報化社会などという言葉があるとおり、今の時代は情報で溢れている。

生で見たことのないもの、実体験してないことも、かなりなリアリティでもって”知る”ことができる。

どちらがよい(わるい)というはなしはさておき、書物で読んで想像するのとはひとつふたつ次元が異なる。

バーチャルリアリティなんて言葉もある。

もはや実際に見た、体験したと(あんまり大きな声では言わない方がいいかもしれないけれど)言っちゃってもいいんじゃないか?と思える程だ。

でも本当は”知っている”なんて思わない方がいい。

それで随分視野が狭められるから。対応力や機動性も落ちる。

いくら正確な情報を得ているといっても、それを咀嚼して、”分かったな”と思うのは個々の人間で、個々の人間にはそれぞれ固有の咀嚼の仕方があるから。

無難なのは“分かってるけど分かってない“

ひねくれているように聞こえるだろうけど、落ち着いて考えて見ればほとんどそんな感じじゃない?
簡単な計算一つとっても、「答えの正しさには100%確信がある」ってことは何某かの検算が瞬時に駆動していてそれでもって確信を得ている、、、ってことは実はそれ以外の検算方法もあるのかもしれない。というように、まだ知らない世界に思いが馳せさせられもする。はず。しない?
ま。ただの可能性のお話なので。
簡単な計算だってそんな可能性があるわけなので、私たちが言葉を使って為すことに至っては、分かっていつつ分かってないなんてのは至極当り前のはず。じゃない?
「分かってても分かってない」なんて曖昧なものを推奨するなんて、、、賛否(”否”だけか??)あろうと思うけれども、何か分かってもそこで終わらないってのが現実だからね。つまりは、やっぱり分かってても分からないことがあるんだよ。だからこそ次々と新しいことを知っていけるんだと私は思う。

「新しいこと」とはいったけれど。現代人といったって、旧い昔のモノゴトは全部飽き飽きするほど分かっていて、だから未だかつてなかった何か、みたいなものだけを追い求めているわけではない。

でもなんかね。。。全体的な傾向として、イノベーションとかいうと、旧いものからの発見にしたって、「おおーーっ!みんな今の今まで見過ごしてきたなー!」みたいな新しさという観点で取り扱おうとしていて、そもそも新し気なものを発見できるのは、旧いものたちの積み重なりのお陰、という感謝の念が薄いように思える。

既に起こったものである以上、旧いものはそっからは変わらない。変わるのは振り返って見る今を生きている人々の匙加減次第だ。

でもね。

旧いものっつったって、そいつらにも生きてる時代はあったわけよ。

そういう意味での尊重・リスペクトってのは、私は大事だと思う。

なんだか放浪の話(ザンビアの話)が全く出ないで、私の思考が放浪しているようだけど、私はこれをザンビアでの体験を想いながら書いている。

ザンビアに生活していたといったって、所詮お国(日本国)の側の人間であって、ザンビアの人々と日常を共にしていた割合なんてたかが知れている。

私が日本なるものとの距離感、というものを取り上げてきているとおり、ザンビアにいたって私は日本なるものにまみれていた。

でも日々日本なるものとはほぼ全く関係のないザンビアの日常が目の前にあるわけで、よって、両者間のギャップは自ずとより鮮明になる。

私は変わっているのかもしれないけれど、そんなとき、じゃあ今いるザンビアのことをよりよく知ろう!というよりも、日本なるものの方に注意が向いた。

2年や3年で、他所様のことなんて分かるわけないよ。

勿論これは知ろうとするな!なんてことではない。

やっぱり目の前にいる人々や自分を取りまく社会のことは知ろうとした方がいい。

でも、それって自ずと限界がある。

永住を決めてそこにい続けようと決心とかしていれば話は別だけどね。

多分これは日本人だけのことではないのだと思うんだけれど、例えばザンビアなら、ザンビアにいる以上それについてできるだけ色々なことを知った方がいい、ってのがえらい無批判に行われている感じがする。

知ろうとしている者たちの知ろうとしている者たちによる知ろうとしている者たちのための世界(リンカーン風)。

これを私は独善的と呼ぶ。全く民主主義だなんて思わない。ただ延々と引き続く植民地主義

お前ら所詮ガイジンじゃん??ってね。。。

繰り返しになるけど、知ろうとすること自体がおかしいんじゃない。

ただ知ろうとしている対象は、モノじゃなくて人間だってこと。

まあ人間だけではないんだけどね。

知るってのは双方向の営みなわけで。

特に人間が人間を知ろうとしているなら、片っ方だけがどんどん知識を増やして相手方についての理解を深めればそれでOKなんてもんじゃあない。

そういう基本が全く理解されていない。

誰もが必死で生きているんだろうけど。

ならばこそ。

アンタ方が知ろうとしている対象だって、必死で生きてるんだよね。

歴史的な経緯があって、先進国と途上国の分け目がある。

当然前者の方が有利なわけだけど、別にそれは一人一人の能力やらやる気やらがどうこうということで決まっているものではない。

それなのに、やっぱり有利な方は有利。

有利というのは、自分たちの知ろうとする努力がほとんどそのまんま成果になる。

いや。正確にはより容易なやり方で成果と成すことができる」だな。

不利とされる、容易に対象化される方の人間だって、外人と付き合えば外人のことを知るだろうし、理解も深めることがあるだう。けれども、不利な側の”成果”って、どうしても迎合的になる。要するに、有利な方の人々の作法を真似るような形。そうでもしなければ「不利な方に置かれている人々が、付き合うガイジン(有利な方)とかその他何かについて理解を深めている」というような認識のされ方はなかなか難しいだろう。

いやいや。もう文化人類学の歴史も長くなってきてるし、少数部族であっても、エスノグラフィックな方法で、その部族なりの声や意味するところが割と広く伝えられるようになっている。

そんな意見もあろう。

ただね。

そもそもエスノグラフィなんてやってもらわなくったって、声だの意味だの風俗慣習だのは存在し続けているんであってね。

わざわざ「埋もれていたものを掘り出すことに成功しました」だの、「消えてなくなりそうな存在をエンパワーしました」だの、言いまくっていられるって時点でスーパー不平等なのさ。

全く文化風習言語の異なる者や、力関係上対極に位置するような者の間にも”共通の理解”が得られて、コミュニケーションが促進されることは勿論ある。でも、そこには相当な偶然も含まれている。

コミュニケーションブレイクダウンというやつにもちょくちょく出くわす。

そういう場合、”誤解”があるはずなんだけども、これは、どんなに情報の咀嚼の仕方を指南したとて、決してなくなるもんじゃない。

個人個人に固有の咀嚼の仕方というものは、どこまでいってもやっぱり”固有”なのだ。それによって個々に得られる理解なるもの。程度の差こそあれズレがあって当たり前。

ということは?

なんで日常的にコミュニケーションなんてものが成り立っているのか?

私がポルトガルに行って勉強してきたことから導き出せる答えは:

たまたま。

そりゃ文化だ風習だ、結構長い期間積み重ねられてきた知識だといろんなことは言える。

でもさ。

そうしたものを携えて生きてるのってやっぱ一人一人じゃん?

とある場面設定ではほぼ誰もが同じように行動すると分かっていたって、実際にそうするのは一人一人。外れたことする人だっているかもしれない。

コミュニケーションのように二人以上の人間が関われば、たまに食い違いもする。

そう考えた方が、より多くの人間の存在している意味が認められると思うのよ。

何々(礼儀作法?マナーとか)をマスターしてなきゃダメとか、より多くのことを学んでいる方が価値が高いとか。排他的で、物量頼り。。。美しくないんよね。。。

勿論、知識は豊富であるに越したことはないけれど、豊富であったとしたって間違わないことはない。他者とのコミュニケーションなんて特にそうだ。

知識が豊富だというなら、それこそどんな人ならどんな咀嚼の仕方をしがちか?も予測できるんじゃないの?ほんでもって、うまく予測できれば、コミュニケーションの失敗だって防げる可能性が増すはず。

そういう知識の使い方こそが、価値が高いのではないかな??

という観点から見ると、

私たちは価値の高い知識の使い方ができているとはとてもじゃないけど言えない。

あくまでも、ほぼ自然のプロセスとして発生するパワーに多くを頼っている。

何が正確か?何が真で何が偽か?それらを証明することによってより多くの人間を従わせることを理想とする。

強いも弱いも、富める者も貧する者も、全員が客観的事実に基づいた正確な知識を得れば、それに基づいて関係を取り結べば、コンフリクトなど発生しようがないと考えているようだ。

客観的事実なんて存在しない、なんてことが言いたいのではない。

客観的事実は存在する。

それを知り得たなら、まだ知り得ていない者も含め、関係する者のより多くがその客観的事実とやらに基づくことで、わずかにでもハッピーになるようコーディネート、各種アレンジまですべきではないのか?ということ。

客観的事実はそこにあるんだから、各自調べて確認すればいい、やらない人間のことなんて面倒みていられない、とでも言うかのように、知ってるもんだけがそれを利用して利益を得てもいい、というようなものではないのだ。現実の世では全員が等しく利益を得るなんてことは不可能な以上、結果的に一部の人間だけしか利益は享受できないのだとしても。

一体全体、客観的事実なるものを証明するのに、どれだけのエネルギーが必要と考えているんだろう?

精神論でカバーできるような問題ではないのよ。これは私たち人間の歴史が示して教えてくれていることだ。

歴史なんて持ち出さなくたって、私たち自身の生活ぶりを振り返って見れば明らかだろう。

なんぼ頭が回ったって、相当がんばりがきく人だって、客観的事実であることを証明するためにコンマ一秒たりとも休んだことがない人間なんていないだろう。

休むどころか、いつまでたってもやるべきことに手が付かないなんて時間、いっくらでもあるんじゃないの?休むだけならまだしも、適当な誤魔化しだって珍しくない。

で。

それを何だかんだと理屈を付けてなくそうというような言説には私は与しない。

そんな精神論。お花畑ユートピアを夢見るより性質(たち)が悪いと思っている。

できもせんことを、あたかもできること、やるべきことのように強弁して他人にも押し付けようだなんて。

不誠実もはなはだしい。というか。。。野蛮だよね。。。私にしてみれば。。。

自分にできることに正直に。多少のチャレンジも含めね。

それぞれ自分自身の情報の咀嚼の仕方について「これでいいのか?」「これ。ええんやろうけど継続できる?」みたいな自問自答ができれば理想的だけれど、あくまでも理想であって、常に、はムリだ。一人一人が継続して使えるエナジーには限りがあるから。

せめて、

私たちは須らく全員漏れなく”仮定”に基づいて考えたり行動したり、果ては感じたりしている。

”仮定”でしかないのであれば、ただの思い込みだよね。それぞれ。みんな。

”仮定”を検証するのだって、お互いのためじゃん?検証する者だけが偉いんじゃないよね。

そういうもんだと理解する。

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まあそうは言ってもだ。

人間全体としての実力なんてそうそう伸びたり縮んだりするもんじゃない。(注:”縮みもしない”っての。重要ね。悲観的になりすぎる必要なない。)

なんてことを踏まえると。

こんなこと書いたって別に何かが変わるなんて期待持てるもんじゃない。

覚めたしぐさで熱くみろ
涙残して笑いなよ
『ギンギラギンにさりげなく』
伊達歩詞より

(”覚めた”なんやね。。。”冷めた”やと思ってた。。。)

日本的なパラドックスとでもいうんでしょうか?

意味の重層性というか、言葉では言い表しきれない叙情のようなものね。

そのあたりが日本人にはお似合いな気はする。

Para-doxa(語源直訳:全く対照的な意見)をガシガシゴリゴリ分析するなんてもんとはちゃうよね。。。

まあそれをやり続けたところで、「分かった」けれど「分かってない」から考え続ける、、、なんて慎ましやかな人間は消え、「分かった」「分かった」と主張し合うはしたない者たちが増殖するのが人間なわけやから。。。

誰も何ら卑下する必要もなし。

一人がとある期間に消費できるエネルギーの量には限界があるなど、抗い切れないものが存在するのは事実。それをどうしても認めたくないというのもあって、しかもそれは全く悪いってことでもない。

叙情に浸るにせよ、解けない疑問について考え続ける真剣さを装いつつ「ここまでは解けた!」ってことにして喜ぶにせよ、それで幸せならいいじゃないか。

かくして??私は放浪を続けるのでありました。。。

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