美術史第50章『古代エジプト美術-後編-』
新王国時代のエジプトでは中王国時代ではあまり作られなかった神殿が造られており、著名なものとしては「カルナック神殿群」の中心をなす「アモン大神殿」や「ルクソール神殿」があり、これらは非常に巨大で複雑だが、根本的には前面にオベリスクを立てた塔門が、中庭を入ると左右に列柱があって玄関があり、玄関の先は再び列柱室でその奥は王と神官の部屋という典型的な神殿の構造と同じである。
この、よく出てくる列柱はエジプト建築の特徴の一つといえ、植物や王の様子が刻まれており、また、砂漠の台地でナイルの川岸まで迫っている地域では神殿の一部や全部を崖の中に掘り込む岩窟神殿という特殊な神殿が作られ、ラムセス2世によって作られた「アブ・シンベル神殿」はこの代表例となっており、このラムセス2世は多くの神殿を新築か増築しており最も多くの建築物を残した王となっている。
また、いつ頃からかは不明だがエジプトでは石英の粉末を炭酸ソーダや食塩水で固めたものに主に明るい藍色の釉薬をかけた小動物像や鉢などを作っており、この新王国時代からは高杯やウシャブティと呼ばれる小さい像やタイルなども多く作られたている。
そして、その釉薬を単独で加工したガラス製品もエジプトは多く作っており、古代エジプトのガラスは不透明の色付きで、金属の棒の先に布を巻き溶けたガラスを巻きつけ冷却後に内部を掻き出すという形で化粧皿、壺、瓶、杯などが作られた。
その後の紀元前11世紀、増大したアメンを祀る司祭勢力が南部で独立し、エジプトは分裂、第三中間期が開始し、紀元前10世紀には新王国時代に西方のリビアから移住し、エジプトで有力者となっていたベルベル人のシェションクがエジプトを再統一するが紀元前9世紀には分裂し、紀元前8世紀には新王国時代に属国にしていたヌビア地方、現スーダンのクシュ王国のピイがエジプトを再統一した。
しかし紀元前7世紀には遠く東のイランから拡大しメソポタミア文明すら征服したアケメネス朝の属国となり、その後、一時的に独立し大国化、しかし紀元前6世紀にアケメネス朝に完全併合され、末期王朝時代が開始すると度々エジプト人による独立もあったが内乱ですぐに滅亡するという状況になっていた。
この頃の美術は以前の古代エジプト美術や他国の美術の模倣で、独自性を失い、紀元前4世紀にギリシア文明を統一したマケドニア王アレクサンドロスが超大国アケメネス朝を滅ぼすと、その領土となっていたエジプトもギリシア人のマケドニア領となり、アレクサンドロスの死後にはその家臣のギリシア人によるプトレマイオス朝に支配され、エジプトではギリシャ美術が広まっていった。
その後の紀元前2世紀、プトレマイオス朝は新興国の共和政ローマの属国と化し、内戦も発生し弱体化、結果、紀元前1世紀後半には女王クレオパトラが実権を握り、同じく当時、ローマ内戦で実権を握ったカエサルと関係を持った。
そして、カエサルが暗殺されその親戚のオクタウィアヌスと将軍のアントニウスが内戦を始めると、クレオパトラはアントニウスと結婚、プトレマイオス朝とアントニウス勢力は協力関係になるが結局、オクタウィアヌス側が内戦に勝利したためプトレマイオス朝は滅亡した。
オクタウィアヌスはそのままローマの初代インペラトールとなり、ローマ帝国が誕生、その後のエジプトはローマの一部として繁栄し、2世紀にキリスト教がローマで広まるとエジプト属州の中心都市アレクサンドリアは最大の中心となり、この頃から古代エジプト人はキリスト教を信じるコプト人になっていった。
そのコプト人によって展開されたのが「コプト美術」でここでは修道院建築や木、石、象牙の彫刻や装飾品、染織の分野では「コプト織」と呼ばれる装飾布が多く作られ、コプト織は現在、ミイラを着衣などとして見つかっている。
建築の分野ではローマが分裂したビザンツ帝国の時代の5世紀、有名な「アブ・メナ」などが建てられた時代に全盛期を迎え、様式としてはかなり後に記すビザンツ美術(*発表の際に順番を入れ替えたためすでに記事があります)と同じようなものだった。
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