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美術史第69章『インド・イスラム美術』
かつてインドのほぼ全域を支配したイスラム王朝「デリー・スルターン朝」が縮小した16世紀、同じくチュルク系民族を主体としたイスラム教国家である中央アジアの大帝国でイスラム文化の復興を成し遂げた「ティムール朝」がウズベク人の侵略で滅亡した。
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ティムール朝の王バーブルがインドに侵入、バーブルは「ムガル帝国」を建国し、2代目のフマーユーン王の時代には北方に追い返されるが、3代目のアクバルは北インドを統一、ヒンドゥー教徒などの異教徒も取り込んで国を整備していき、この時代にムガル帝国、および「インド・イスラム文化」は全盛期を迎えた。
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デリー・スルターン朝やそれに続くムガル帝国の繁栄で、新たにインドの支配者となったイスラム教では先述の通りこれまでヒンドゥー教で盛んに行われきた神を象って銅像にして祈るなどの偶像崇拝が禁止されており、そのムガル支配下では人物や動物の彫刻はあまり作られなかった。
そのため、この時代のインドでは美術作品としてはイスラム教の教会や寺にあたるモスクや、宮殿、祀られている人物の墓に付属するマウソレウムなどの建築や、カリグラフィー、写本絵画などの分野が発展した。
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デリー・スルターン朝時代に建設された非常に有名な作品としてはデリー郊外に王国の建国者アイバクにより戦勝を祝って建てられたモスクに付属した建設された「クトゥブ・ミナール」という塔で、これはヒンドゥー教やジャイナ教の建築の一部分を人物や動物の部分を削って植物模様だけにして流用しており、ヒンドゥー教徒の職人が作ったものであるため建築技法はインド建築に属しているとされる。
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ムガル帝国時代に建設された非常な有名な作品には「フマーユーン廟」と「タージマハル」があり、フマーユーン廟は3代目ムガル皇帝アクバルが事故死した父の2代目ムガル皇帝フマーユーンのために建立した巨大なマウソレウムで、伝えられるところによるとペルシア人の親子が9年かけて完成したとされる。
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実際にフマーユーン廟ではペルシアの「ペルシャ式庭園」が周りの広大な区画を囲み、建築様式もペルシア的で、その後に造られたアクバル廟やジャハーンギール廟にはあまり受け継がれなかった。
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しかし、フマーユーン廟はもう一つのムガル美術の代表作で現在では世界で最も著名な建築物の一つでもある「タージ・マハル」という5代目ムガル皇帝シャー・ジャハーンが死亡した愛妻であるムムターズ・マハルのために建設したマウソレウムに大きな影響を及ぼした。
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また、アクバルが新首都として建築したが水不足と猛暑で14年で棄てられた「ファテープル・シークリー」という場所は幾何学的な都市計画によって造られており、建築物の殆どが赤い砂岩で建築され、数多くのインド・イスラーム時代の建築が残されている。
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ムガル帝国以前にインドを支配したトゥグルク家時代のデリー・スルターン朝から独立したインド中南部のデカン高原のバフマニー朝が崩壊した15世紀以降、ムガルに滅ぼされるまで存在していたムスリム五王国というイスラム王朝達でもインド・イスラム美術は展開されており、特に有名なものとしてはビジャープルの「ゴール・クンバズ」というマウソレウムがある。
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その一方、トゥグルク家時代のデリー・スルターン朝のインド支配が崩壊して以来、南インドを支配したヒンドゥー教国家「ヴィジャヤナガル王国」の首都ハンピには当然ヒンドゥー教の遺跡が数多く残され世界遺産にも指定されており、その一部はイスラム美術の影響もあるとされる。
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インド南端部のタミル地方では広大なヒンドゥー教寺院が多く建設され中心的な都市であったマドゥライでは「ミナークシ寺院」などが建立され、ヒンドゥー教の聖地であるシュリーランガムではヒンドゥー寺院最大級の「ランガナータ寺院」が建てられるなど、ヒンドゥー教美術も南インドで発展し続けていた。
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また、この頃のインドでは写本装飾などの細密画(ミニアチュール)が流行し大きく発展していたのだがそれは次回の70章で扱う。
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