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アイヌの歴史10『蝦夷とは-後編-』

 『古事記』の神武東征の記録で書かれた近畿地方の非服従の人々であるエミシは漢字も愛、広いを意味する瀰、歌を意味する詩という、悪くない意味の三文字「愛瀰詩」が当てられており、あくまでも音をそのまま書いただけで、エビを意味する「蝦」と中国語で東方の異民族を表す「夷」を合わせた蝦夷の表記のように異民族を意識した表記ではない。

『前賢故実』の武内宿禰

 「蝦夷」の表記が最初に現れるのは古事記と同期に編纂された『日本書紀』の中に記述された4世紀頃の倭国の大王オオタラシ、後の時代になって景行天皇と呼ばれる人物により、北陸・東国に送り込まれた武内宿禰(たけしうちのすくね)という皇族の一人が「東夷、つまり東の人々の住む地域は日高見国と呼ばれ、男女ともに刺青を彫っており、勇敢で、これらを総称して蝦夷と呼ぶ」とした上で「土地が豊で広いため征服するべきである」としている。

萪内遺跡の縄文顔面像

 刺青の風習は縄文土偶から縄文時代から行われており、「魏志倭人伝」の邪馬台国の記録にも現れているため弥生時代以降の日本人も行なっていた風習であったと思われるが、古墳時代には廃れ始め儒教・仏教の伝来などや中国を目指した「大化の改新」などの多くの改革の時代の中で消えたとされている。

刺青があるアイヌ女性
ハジチを刻んだ沖縄人

 ちなみに、刺青は最初に言った通りアイヌに明治4年の禁止まで、沖縄では明治32年の禁止まで盛んに行われている文化で、九州南部にいた「隼人」も刺青をしていたともされているため日本列島にはもともと刺青が広く存在していたことが推測される。

乙巳の変
東大寺

 また、蝦夷を侮辱的な表記であるが、これはあくまでも表記のみで見ればの話であり、「蝦夷は一人で百人に相当するほど強い」という様な事を言っている「えみしを 一人 百な人 人は言へども 手向かいもせず」という歌が神武東征の記録にあり、大化の改新を開始させた「乙巳の変」で死んだ蘇我蝦夷(そが・の・えみし)や、小野妹子の息子である小野毛人(おの・の・えみし)、紫香楽宮や東大寺の建設を指導した佐伯今毛人(さえき・の・いまえみし)、「壬申の乱」の大海人皇子陣営の将軍であった鴨蝦夷(かも・の・えみし)などのように”エミシ"という名前は貴族の男性にはかなりありふれた部類のメジャーな男性名だった事などからも、エミシという言葉は、例えば勇敢とか、そういった良い意味として使用されている側面もあったといえる。

雄略天皇
当時の拡大した高句麗(Goguryeo)、Silla=新羅、Baekje=百済、Gaya=任那、Liu Song=南朝宋

 なぜそのような字を当てたのかについてだが、実は8世紀の日本書紀の蝦夷の記録よりも古く5世紀の中国の文書の倭王の武の部分に蝦夷と思われる「毛人」という人々の記録が残っており、この倭王武、つまり日本の大王オオハツセ・ワカタケ、後の時代に雄略天皇と呼ばれる人物は内政面では地方豪族を武力制圧して朝廷の権力を強め、秦氏(はたうじ)や東漢氏(やまとのあやうじ)など外国人を多く入れ、絹産業を確立、外交面では朝鮮半島に任那(みまな)(伽耶)という支配地を持っていた事から新羅(しらぎ)と百済(くだら)と共に、領土拡大政策を取る高句麗(こうくり)と戦い、一度滅ぼされた百済に久麻那利(くまなり)(熊津)を与え復興したとされる天皇である。

 そんな雄略天皇が中国南北朝時代の南側の劉宋王朝に送った文書の中で、「東の毛人の国を五十五国征服、西の衆夷を六十六国服属させた」と記しており、ここでいう"毛人"が蝦夷、"衆夷"が隼人なのではないか思われているのである。

山海経に登場する人類創造の女神 女媧
1万巻の辞典『古今図書集成』の毛人
唐代の東夷

 ここで初めて登場したこの"毛人"表記は『山海経』に記された架空の「毛民国」を意識したのではないかとされ、その後の7世紀中期に日本が中国の唐王朝に「遣唐使」を派遣し、この頃に中華王朝が用いる「東夷」の概念を意識した蝦夷という表記が生まれたと思われる。

金田一京助

 では、そもそも、エミシという単語の由来は何なのかというと、実は解っておらず、アイヌ語研究を最初に始めたとされる金田一京助は北海道アイヌ語でアイヌという言葉が人間を表す様になる前の、古いアイヌ語やその名残が強い樺太アイヌ語で人間を表した「エンチュ」という単語が由来であるという可能性と、海老の古語「エミ」に由来する可能性などを指摘しており、他にも弓を打つ人を意味する「ユミシ」に由来するなど諸説があるという感じである。

出羽
 陸奥

 また、蝦夷という表記がエミシに当てられる様になった時代、「蝦狄」というまた別の漢字が当てられており、これは当時、越後国に併合され後に出羽国として分離する日本海側地域、現在の山形と秋田の蝦夷を「夷狄」、陸奥国に併合された太平洋側地域、現在の岩手・宮城・福島・青森の蝦夷を「蝦夷」と分けて表記していたとされており、それぞれ単に「戎」と「狄」としか書かれていない場合もある。


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