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「羅生門」を読む⑤ 精読編2-下人の憎悪と〈善/悪〉の相対化

芥川龍之介の作品を読むとき、絶えず意識されるのはこの作家の物事や人間を見る目である。それは容赦の無く対象を見透かす目である。そういう意味で彼は徹底したリアリストであるということができる。彼のこの目は自分にも向けられ、彼自身を毀損することにもなる。よく言われる「見えすぎる」苦悩というもので、それは決して人を「幸福」にするものではないだろう。

だがそのことが彼の作家として負の要素とはならないことは言うまでもない。少なくともぼく自身はこの作家によって、どんな対象においても客観的に把握し、冷静に分析するという近代の根本姿勢を知り、そして学んだ。高校の教科書で「羅生門」に出会い、世の中やまわりの人々が全くちがって見えた時のことをぼくはまだありありと記憶している。今回は、そんなぼくの思い入れがすこし強めに反映すると思うが、青春への感傷としてお許しいただきたい。

▢「羅生門」の場面構成と場面1の要約及びその補足

〈作品全体の場面構成〉

〈場面1の要約〉
平安末期の京はたび重なる天変地異によって既成の秩序や制度が崩壊した、いわば「仏は死んだ」濁悪世じょあくせである。そこへ雇用主からリストラされた「下人」は放り出された。「下人」は生きるためには「盗人」になる以外はないと分かっていながら、その「勇気」が持てないでいる。それは、生きるべきか死ぬべきかという選択の問題ではない。生きるための手立てをしなければ自動的に死ぬという状況で、生きるための行動をとる決断ができるかどうかの問題である。そして「下人」がこの問題を乗り越えられないのは、彼の意識に「盗人=悪」というこれまで彼が依拠してきた善/悪の基準が埋め込まれているからである。

以上が、場面1の精読で述べてきたことの要約です。ただ、前回、下人の場所移動の動機については述べ忘れたので触れておきます。

〈補足〉
下人が場を変えようとしたのは、「雨風の患うれえのない、人目にかかる惧れのない、一晩楽に寝られそうな所があれば、そこでともかくも、夜を明かそう」という、一時しのぎの気持ちからです。「ともかくも」という表現は、「決心をしないまま」ということだし、楼の上に行くのも、たまたま「梯子」が見えたからでこの段階での彼の内部に変化はありません。そのことを確認して、場面2の精読をしていきます。

▢場面2-下人の無意識段階の覚醒

下人の内部変化は、無意識と意識の2段階で起こってきます。場面2はその
無意識の方の変化です。

〈比喩の意味するもの〉
場面2において、下人の状態は2つの比喩で表わされます。

①一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の容子を窺っ  
 ていた。(梯子の中段)
②下人は、守宮のように足音をぬすんで、やっと急な梯子を、一番上の段ま
 で這うようにして上りつめた。(中段→最上段)

「羅生門」

どちらの比喩も楼内に人がいることを察知した下人の警戒心を表しています。違いは哺乳類と爬虫類です。梯子の中段にいる下人は「猫」で、いちばん上の段に移動しているときが「守宮」。より原始的生物になっています。これは、下人の本能が恐怖によって刺激され、ある意味、生物としての生命が覚醒しているとみることができます。

〈「一人の男」と「赤く膿を持った面皰」〉
「一人の男」という書き方については、場面の転換を印象づけるため、という説明が一般的なされています。それはそれでいいのですが、ぼくはそれに加え、下人の「下人」でない相貌が同時に示されてもいると思います。楼の上からさすかすかな火の光が浮かび上がらせる「男」の右頬の「赤く膿を持った面皰」はあきらかに後に「盗人」に変貌する下人の野性的「生」が潜在していることを示しているのではないでしょうか。

〈光と下人との関係〉
もう一つの注目点は「光」です。光の作用は次の3つです。
  ①下人の様子を浮かび上がらせる。
  ②下人に楼内の人の存在を知らせ警戒させる。
  ③下人の好奇心を刺激し、彼自身の目と同化する。
蛾は光に寄ってきます。それとよく似ていて下人は本能的にこの光に近づいていきます。そして、楼内の揺れる火の光で浮かび上がる「ごろごろ床の上にころがっていた」死体は下人の視線でもあるのです。

場面図

〈表現の止揚ー「六分の恐怖と四分の好奇心」と「頭身の毛も太る」〉
女の死骸を覗き込んでいる「猿のような老婆」を見たときの下人の心理は「六分の恐怖と四分の好奇心」と分析的に示されます。警戒しつつ梯子を登り、楼内を目で探査している時まで、この2つの心理は併存し、その割合を変化させていきます。ただそう書いておきながら、直後に「旧記の記者の語を借りれば、『頭身の毛も太る』ように感じたのである」とニュアンスの異なる言い方を芥川はかぶせてきます。

普通にとれば「頭身の毛も太る」は「恐怖で毛が逆立つ様」を表すので「好奇心」を打ち消した表現になります。なぜこんな不整合な書き方をしたのでしょうか。それは「表現の止揚」を企図したからだと思います。芥川はこの矛盾関係をあえて引き起こし、身体は恐怖で一杯になりながらも目はしっかりと対象を見ている下人を形象化したかったのではないでしょうか。

〈「個」としての下人の覚醒〉
彼の前にはあきらかに楼内という異質の異様なゾーンが現れ、そこには不気味な未知生物、魔物がいる。それは彼のそれまでの身の処し方では通用しない存在です。つまり、はじめて一人で難局に直面していることになります。「ともかくも」とういう判断保留ではいられない状況を突きつけられています。したがってそこには強制的に「個」としての下人が成立させられていると言えます。もちろん、これは身体的であり、いいかえれば無意識段階の次元においてです。

場面1と場面2の下人の違い

▢場面2-下人の老婆に対する憎悪について

このときの下人が迫られているのは、進むか退くかの二者択一の決断です。つまり、楼内の不気味な老婆と戦うか逃げるか。しかしその決断を下す前に、老婆が死体から髪の毛を抜き始め、下人にとって恐怖の対象ではなくなっていきます。

〈下人にとっての老婆-恐れる者から憎む者へ、そして憎むべき者へ〉
またこの時の老婆は「猿の親が猿の子の虱をとるように」と記されています。これは比喩ですが、下人が視点人物になっているので、下人にそのように見えていることになります。ここで力関係の逆転が起こっています。下人とっては生まれて初めて優位に立てる人物の発見になるわけです。だから、老婆がはっきりと勝てる相手と見定めた上で下人は楼内に乗り込むこんだことになります。逆にこの老婆が本当の魔物であったら下人はおそらく逃げたと思いますよ。

その乗り込む動機として働いているのが「憎悪」です。自分が襲われれれば戦うのは正当防衛になります。だから、「恐怖」を抱いている対象になら戦う理由があるのですが、恐怖が消えたわけですから相手をやっつける理由がない。「憎悪」はその発露対象である「老婆」を「悪」と看做みなすことによって攻撃理由を得ることになります。老婆は下人にとって「憎む者」から「憎むべき者」になったのです。このようなことは、下人に限って起こる現象ではありません。すこし一般化してとらえてみましょう。

〈憎悪のメカニズム〉
「恐怖」は相手の優位性の意識から発生します。しかし、その優位性が崩れたとき、それまで「恐怖」に抑えつけられた憎悪が顕在化してきます。しかしこの段階では「憎悪」は社会的認知を得られません。「憎悪」が「正しい憎悪」になるためには憎悪対象を「悪」と認定する必要があります。

この心理メカニズムが意図的にしろ無意識的にしろ発動した例は、ナチのホロコースト、軍国主義時代の我が国の鬼畜米英プロバガンダ、そして現代においても人種、民族、宗教、性的指向などに関わる種々のヘイトクライムなど多岐にわたって存在します。

〈「老婆=悪」の無根拠性〉
芥川はこのような下人の心理を次のように分析しています。

それほど、この男の悪を憎む心は、老婆の床に挿した松の木片きぎれのように、勢いよく燃え上り出していたのである。
 下人には、勿論、何故老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くと云う事が、それだけで既に許すべからざる悪であった

「羅生門」

芥川はここで、老婆の行為の理由が下人に分かっていないこと、そして「雨の夜」「羅生門の上」「死人の髪の毛を抜く」という異様な状況の3重奏によって「老婆=悪」と認定していることを指摘しています。つまり、「老婆=悪」は状況の雰囲気によって決定されており、下人の「悪を憎む心」には根拠がないということです。

この時の下人に彼の「センチメンタリズム」が作用していると述べている説もありますが、ぼくにはよく分かりません。普通、この時の下人と同じ状況にあったら、かなりの割合の人間が下人と同じ心理の罠にはまり込んでいくんじゃないでしょうか。「下人」の特殊な気質ではないでしょう。

もっと言いましょうか。自分たちとは異なる者は「尋常ならざる者」であり、排斥し、撲滅せねばならぬと考えていた人は、太平洋戦争中において、多くの知識人や「センチメンタリズム」を忌み嫌う将校にも見受けられます。繰り返しになりますが、この心性は普通の人間に見られる認識の一般形式のひとつです。

▢作者の視点ー「善/悪」の相対化

作者は裁判官のようにそのことを冷静に吟味しています。冒頭にも述べたように、ぼくはこういう客観に徹する姿勢を芥川から学びました。

勿論、下人は、さっきまで自分が、盗人になる気でいた事なぞは、とうに忘れていたのである。

「羅生門」

先ほどの引用の後に続く文です。この一文をどう捉えたらよいでしょうか。下人は記憶喪失?まさかね。下人はついさっきまで半ば「悪」の道に進む気でいたのに、この時、例の「悪を憎む心」に支配されています。では、彼はなぜ〈悪〉から〈善〉へ真反対の男になったんでしょうか。

羅生門の下の下人は、飢え死にをしないためには盗人にるしかないと思っていました。それに対し、この時の下人は尋常ならざる状況下の中で「老婆」を「悪」とみなし、自分を「善」の方に置いていることになります。つまり、状況によって下人は「悪」にも「善」にもなるということを示しています。しかし、ただ状況によって人間は変わるものだ、だけでおわるべきではありません。この下人の自己矛盾はもっと根本から捉え直していく必要があります。

〈「老婆=悪」と「盗人=悪」の揺らぎ〉
下人はたしかに「老婆」を「悪」と看做みなしているわけですが、それは先ほど見たように根拠なき断定です。いわば、「悪」と思い込んでいるだけです。そしてまた、死なないために盗人になることは本当に「悪」と決めつけられますか? 「老婆=悪」「盗人=悪」もどちらも怪しいのです。ひとつは楼内という異様空間において、もうひとつは平安末期の「濁悪世」において、どちらも今にも抜けそうな歯のようにぐらついています。もうお分かりでしょう。 この問題が場面3で確かめられていくことになります。

状況によって人間は「善」にも「悪」にもなります。そしてそれと同時に「善」も「悪」もそれ自体が絶対的なものではありません。状況や時代によって変わります。極端な場合は逆転することだってあります。

現在行われているロシアのウクライナ侵攻はあってはならないことです。ただ、テレビのコメンテーターが上から目線でなんのためらいもなく批判している様子をみていると無性に腹が立ちます。おいおい、現在ロシアがやってることは、「近代化」した日本が明治から敗戦まで長期にわたり、中国や朝鮮や近隣諸国にやっていたのと同じことだよ、そこの振り返りと検証はしなくていいのかい、そういいたくなるからです。

現在のロシアがやっている「悪」は、軍国主義の日本では大多数の国民が「善」としていたはずです。歴史は覚えておかなければなりません。特に負の歴史はね。

〈「善悪の彼岸」へ〉
「善」と「悪」それ自体が相対的なものであり、それはそのときの人間の置かれている状況や都合で変化する。そういう善と悪の揺らぎの二重構造を芥川は下人を通して浮かび上がらせているとぼくは思います。

このことは、次回、場面3の精読においてニーチェの「善悪の彼岸」と関わらせつつ考えていきたいと思います。

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