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「ラプラスの砂時計」・・・不思議な物語。何事にも無関心な義母と俺の話。


『ラプラスの砂時計』


小学4年生の春。父は一人の女性を俺に紹介した。

「理子さんだ。結婚しようと思っている」

目の前のソファーに、化粧の濃い、茶色の巻き髪の女が座っていた。

吹かしている煙草に真っ赤な口紅が付いていたのを覚えている。

「お前の為でもあるんだ」

父は、いつもの口癖に続いて、その女の略歴や自分と知り合ったきっかけなどを話していたが、俺はほとんど聞いてなかった。

嫌だと拗ねて見せるか、距離を保ちながら、名前で呼んでみるか、
それとも父の期待を裏切らず、母と呼ぶか。

幼い頭は決めかねていたが、半分はどうでも良いとも思っていた。

それを見抜いたように理子さんは、

「無理せんでも良いで、好きなようにしたらええが」

と言って煙草を吹かした。


その言葉通り、俺は無理をしなかった。

母とは呼ばず、理子さんと呼ぶと、父はその都度、

「すまんな。すぐになつくさけ。堪忍やで」

とフォローしていたが、理子さんはたいがい無反応だった。


中学1年の時、俺が繁華街でタバコを吸っていた、と書かれた手紙が担任に送りつけられ、理子さんが学校に呼び出された。

校長室で匿名の手紙を見せられた時、理子さんはテーブルの上の灰皿を引き寄せると、ラッキーストライクの箱を小さなバッグから取り出し、担任が止めるのも構わず、煙草を一本ぬきだし火を着けた。

そして、思いっきり吸い込むと、おもむろに俺に煙を吐きかけた。

ゲホッゲホッ。

俺はたまらず咳き込んだ。

「ほら。この子は煙草苦手ですねん。ほやから隠れて吸ったりしませんわ」

本気で嫌そうな顔をする俺に、理子さんは言った。

「あんた。煙嫌やろ、外へ出とり」

俺が校長室を出てから、どんなやり取りがあったか知らないが、結局この件は、お咎めなしになった。


校長室から出てきた理子さんは、小さいバッグを振りまわしながら珍しそうに校舎の中を見回し、すれ違う女生徒たちの注目を浴びていた。
やがて、廊下の端で待っていた俺に気づくと、笑いながら手をグッパグッパして見せた。

「なあ。チクった奴は分かったから、一発かましとこか?」

と言われたが

「今は良い、自分でするから」

と答えた。俺にもだいたい見当はついている。

「ふふん。まあ好きにし、無理せんでな」

理子さんは笑って歩いて行った。

一月後、先輩男子が一人転校していった。


高校に入ると、俺に彼女が出来た。同級生の牧村美奈世だ。

初めて美奈世を家に連れてきた時、
留守だと思っていた理子さんがソファーに寝転がっていた。

眠っているように見えたので、起こさぬようにそっと
その横を通り抜けようとしたとき、

「慌てて内側にいかんと、ゆっくり外から攻めや」

と横になった理子さんが言った。

俺は「あ。この人は同級生の牧村さんで・・・」
と紹介しようとしたが、理子さんは起き上がりもせず、手をグッパグッパして早く自室に入るように促した。

その日俺は、彼女の体にどんな風に触れても、理子さんの助言を守っているような気分になり、結局手を出せずに終わった。
その為ではないだろうが、美奈世はその後もプラトニックな関係を望んだ。
それが理由で別れ話を言い出しそうになる事もあったが、何とか今も続いている。


俺が大学の理工学部を卒業した年、
理子さんは交通事故で亡くなった。

下宿先に送る荷物を郵便局に届けた帰りだったという。
連絡を受けた時も、実家に帰る新幹線の中でも、奇妙に冷静だった。
逆に父は赤子のように泣き通しだった。
親戚は皆遠方にいるため、葬儀の準備は俺がせざるを得ない。

「手伝わせて」と言ってくれた美奈世に父の世話を頼み、俺は遺影になる写真を探した。

リビングのサイドボードを開くとアルバムが並んでいたが、父と俺のものばかりで、理子さんのものは無い。

嫌がったわけではないが、俺は写真自体が好きではなかった。

鍵のかかっていない引き出しを開けると、中にラッキーストライクの箱と、本がたくさん入っていた。ほとんどが物理の本だ。

「ニュートン力学。カオス理論。バタフライ効果まである」

一冊手に取り開いて見ると、理子さんの字でびっしりと書き込みがされている。

理子さんが勉強していたのか。こんな難しいことに興味を持っていたなんて
気づかなかった・・・俺はあの人の事を何も知らない・・・

その本を見ているうち、なぜだか体が震えてきた。
空虚な喪失感が心の中に湧いてきたのだ。

本を抱えたまま動かなくなっている俺に気づいた美奈世が
背中から抱きしめてくれた。

「ねえ。私がこの家に初めてお邪魔した日の事覚えてる?
あれからしばらくして、私、お義母さんに会ったの」

「え?」

「商店街の本屋でバイトしてたでしょ。
お義母さん、今持ってる『ラプラスの因果律』って本を買いにきたのよ。
レジにいる私に気づいたら、あなたには黙っててな、って照れ臭そうに言ってた」

知らなかった。
昔からずっと物理が好きだなんて、おくびにも出さなかったのに・・・

「それでね。お会計を済ませた後でお義母さん、私に言ったの。
『無理せんでも良いで、あかんと思たら、あかんでええのや。好きなようにしなはれ』って。
それで私、あなたの前でもずっと楽でいられたの。
そのままで良いと信じられたから、だから・・・」

美奈世は涙ぐみ、言葉を詰まらせた。
大丈夫だ美奈世。その言葉の続きは聞かなくても分かる。


俺の心にはずっと喪失感があった。
実母が亡くなってから、父と二人暮らしだった頃も、理子さんが来てからもあった。

ただ理子さんが、折に触れて伝え続けてきた言葉は
少しずつ砂時計の砂が落ちるように俺の中に溜まり続けてきた。

『無理せんでも良い』

手に入れたことも、失ったことも、きっと、砂時計の砂のように静かに心の中に溜めていけば良いのだ。
もし、又ひっくり返されるような事があって喪失感が生まれても、その都度新たな砂を溜めていけば、しっかりと心の穴を埋めることが出来るに違いない。

開いた本の一節が俺に目に飛び込んできた。


「・・・全ての出来事は、それ以前の出来事によって決定される・・・」

              おわり


「ラプラスの悪魔」という概念が物理の世界にはあります。
「ある時点において作用している全ての力学的・物理的な状態を完全に把握・解析する力を持つ存在は未来を含む宇宙の全運動までも確定的に知りえる」というものです。

ちょっと大雑把に訳すると、
「今起こっていることが分かれば、未来は分かる」
というようなこと。

元々は「神」を定義しようとして考えられたものらしいのですが、

現在では、原子の位置と運動量の両方を同時に知ることは不可能である、として、この考え方は否定されています。

でも、この物語の主人公は、新たな砂を溜めれば失った悲しみも埋められると言います。

もしかすると、今では否定されている「ラプラスの悪魔」も
将来、全く別の分野で再び注目を集めることがあるかもしれませんね。


・・・全ての出来事を解析できる知性が存在するならば、
この知性にとっては、未来も過去同様に全て見えているに違いない。
人類はそれを太古から『神』と呼んでいる・・・




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