見出し画像

毒親育ちが自分本来の誇りを取り戻すために  ⑧

宗教戦争


きょうだいは未だに母と同じで宗教への信仰心が篤く現在進行形だ。


だが教祖に名付けられたのはきょうだいの中で私だけ。

それを過剰に称賛していた母の呪いも手伝って、きょうだいからすると小さな頃から複雑なところもあると思う。


だが私は昔からその信仰をきょうだいのように熱心に受け入れていたわけではなかった。

今ではその宗教に信仰を示していないことは家族もわかっている。


そうなったらなったで、また別の気持ちを感じる時がある。どちらにしても難しい。


「同質な同志」以外との「対等」な付き合い方が分からないのかもしれない。


だから、家族きょうだい間であっても「思想」が異なりそこに理解を示し合えなければ、新たに宗教戦争に移行してしまうのかもしれない。


国と国、宗教と宗教で正しさのぶつかり合いで戦争が起きるのと同じく、永遠に決着はつかないどころか、負傷者、死者を出すだけ。


まともにやり合ったら不幸へのデスロード一直線だ。


私は自分の正しさを押し付けて相手を叩き潰し支配するための攻撃はしない。


だからといって相手の言いなりになる気も全くない。

自分の心と生活の自由は徹底して守る。


攻撃されて支配されるのは自分をころすことに等しい。


だから、お互いの自由を認めずに否定したり攻撃したりしてくるやつは、決着のつかない泥仕合を仕掛けてくる時点で面倒くせーやつだな、と思う。


他人ならまず相手にしないけど

そんな失礼な言動をする人なんてアウトだしそもそも付き合わないだろう。


これが他人ではないところが血縁家族の揉める元だ。


「尊重」がベースにない関係なんてどう逆立ちしたところでいい付き合いが出来るわけがないのに。


会社や公共の場ならコンプライアンスやら何やら、今のご時世は何かと厳しくジャッジしてくれる「法」や「モラル」が機能している。


第三者の目もあるので、一方的なハラスメントみたいなことが起きたら問題になりやすい。


家族の中で起きることは治外法権で基本、本人達任せの超サバイバルだ。


「思想」はどちらにも等しく「自由」があり、自分で問い続けていくしかない。


自由と責任はセットだ。


誰の管理も入らない自由は時に厳しくもあるが、「生」そのものの喜びを感じられたり、自分の尊厳を取り戻せる素晴らしさもある。





続く


この記事が参加している募集

これからの家族のかたち

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?