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「もうダメだ」と悟った2つの体験。あるいは、旅が教えてくれた貴重な“気づき”。

「旅先で怖い目に遭ったコトはないんですか?」

その答え、というか、強烈な思い出として。前回こちらのnoteで中米・ベリーズでの出来事を綴りました。

その続編(?)として。今回は「もうダメだ」と死を悟った2つの体験を綴ろうと思います。

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其の一:アメリカでの恐怖体験

それは、テキサス州のヒューストンで起こった。

大学3年を終えたぼくは、学校を1年間休学して、北〜中〜南米大陸をバックパッカーとして旅することを目的に、日本から出発地のニューヨークへ向かった。

1週間ほどニューヨークを愉しんだ後、いよいよ旅が始まった。アメリカ国内の移動手段は、グレイハウンドバス。ニューヨークからバッファロー、クリーブランド、シカゴ、インディアナポリス、ナッシュビル、メンフィス、ニューオリンズと巡り、テキサス州のヒューストンに着いた。

ヒューストンで宿泊したのはユースホステル。グレイハウンドのバスターミナルからホステルまでは距離があり、往きはタクシーで向かった。

ヒューストンには3日ほど滞在した。ダウンタウンのほか、宇宙センターや美術館を観光した。ヒューストンから、次はオースティンへ。アメリカの旅で一番愉しみしていた街。グレイハウンドのバスターミナルまでは地元の路線バスで行けることがわかった。意気揚々とホステルをチェックアウトし、バス停まで5分ほどの距離を大きなバックパックを背負って歩き出した。時間は午前9:00頃だったと記憶する。

ホステルが位置していたのは、ダウンタウンから離れた、一見すると閑静な住宅街だった。日中とはいえ、クルマも通らず、ぼく以外は誰もいなかった。

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2ブロックほど歩き、3ブロック目に入ろうと、道路を渡ろうとした瞬間。1台のクルマが左から猛スピードでやって来て、ぼくの目の前で急停車した。

3人の黒人が乗っているのが見えた。運転手、助手席、後部座席に1人ーーと認識した瞬間、後部座席にいた黒人がドアを開け、ぼくの目の前に仁王立ちになった。2m近くある巨体だった。何を言ったのかわからなかった。が、脅迫的な激しい口調だったことは確かだった。と同時に、ぼくの胸ぐらをつかみ、軽々と持ち上げた。バックパックを背負ったまま、ぼくは宙に浮いた。黒人は恐ろしい形相で怒声を上げた。

「金を出せ、金を出せ、早く出せぇ!」

首を締め付けられる苦しさと、何よりもあまりの恐怖で、意識が飛びそうになった。

激高しながら声を荒げる巨体の黒人。失神寸前のボーッとした脳に、うっすらと「早く金を出せぇ!」という殺気だった声が聞こえる。その一方で、脳の一部が冷静に働いた。

「あぁ、ここで死ぬんだな、、大学の友人には『中米や南米に行ってくる』って言ってきた、、どうせ死ぬなら、せめて中米か南米がよかった、、」

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そんなことを冷静に考えながらーー時間にして、おそらく30秒くらいだったかーー突如「ファーック!」という怒声とともに、ぼくは道路に突き飛ばされた。その黒人は慌ててクルマの後部座席に戻り、3人は猛スピードで走り去ったのだった。

何が起こったのか、さっぱりわからなかった。腰が抜けたように、立ち上がれなかった。道路に倒れたまま、まわりを見渡した。誰ひとりいなかった(ように思う)。

我に返った。彼らが戻ってくるかもしれない。また襲われるかもしれない。なんとか立ち上がった。未だ恐怖で全身が震えていた。

自然と足はホステルに戻っていた。気持ちと精神を落ち着かせる必要があった。戻るとホステルのオーナーが居た。「何か忘れ物?」というような表情を見た瞬間、ぼくは現実に返った。いま起きた出来事を興奮しながら矢継ぎ早に話した。オーナーは「災難だったね、、でも無事で良かった」と言った。

1時間ほどで気持ちが落ち着いてきた。一刻も早くヒューストンを去りたかった。再びホステルを出た。大きなバックパックを背負ったまま、バス停まで全速力で走った。先ほどの現場には目もくれず、彼らがやって来るのではないかという恐怖心を抱きながらーーぼくはオースティンへと向かった。

なぜ、彼らは去ったのか。なぜ、ぼくは助かったのか。その理由は、いまもってわからない。誰ひとり、まわりにはいなかった(ように思う)。ぼくは気づかなかったけれど、たとえば巡回している警察、もしくは人の存在が目に入ったのか。

オースティン行きのグレイハウンドバスに乗りながら、先ほど起きた状況を思い起こした。あの黒人も焦っていたのかもしれない。

ぼくはバックパックを背負ったまま吊し上げられていたのだ。金を出したくても出せる状態ではなかった。にもかかわらず、金を要求してきたのだ。冷静に考えれば、ぼくを恫喝し、殴り、バックパックや金目なモノを盗んで去っていくのが、彼らにとっても安全だったはずだ。ヒトを襲い、金を盗むという犯罪ーーもしかすると彼らにとってぼくが初めての対象だったのかもしれない。

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其の二:ブラジルでの恐怖体験

ブラジルのサンパウロにあった、日本人バックパッカーの定宿「ペンション荒木」。そこで知り合ったA氏と酒を呑みに出かけ、荒木に戻るため深夜タクシーに乗っていた、ある晩のことだった。

タクシーの運転手は、なんの前触れもなく、急に路肩にクルマを停めた。ぼくは拙いポルトガル語で「ここじゃない。ペンション荒木はもっと先だ」と運転手に伝えた。すると運転手は無言で、手で合図するように、「後ろを見ろ」と言った。後部座席に座っていたぼくとA氏は、運転手に促されるまま後ろを振り返った。するとーー後部のリアガラスの向こうに、銃を構えた2人が仁王立ちで、銃口はぼくらに向けられていた。

「なになになに!!!???」

ぼくら2人は同時に驚愕の声を上げた。と同時に、2人が構える銃から見えないように、後部座席に隠れるように、とっさに頭を抱えて身体を丸めた。

ぼくとA氏の身体は震えていた。恐怖で声を上げられなくなった。「いったい何が起きてるんだ!?!?」と心の叫びをA氏に視線で送った。

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恐る恐る視線をリアガラスにやると、1人が銃を構えながら運転席のほうに歩み寄った。慌てる様子の一切ない、落ち着き払った、銃を持った男。

運転席側の窓の外から「窓を開けろ」と合図を送る。「開けるなぁ!!」と声に出そうと思ったが、瞬時に「合図を無視して開けないほうが危険かもしれない」と思考した。運転手はそんなぼくの曖昧な動揺を感じ取ったのか、冷静に、動じることなく、窓を開けた。

銃を持った男は運転手に話かけた。銃を両手で交互に持ち替えながら、運転手に銃を向けることなく、それでも狙いを定めているような不気味な視線で。時折後部座席のぼくらをチラチラ見ながら。

アメリカからメキシコへ入り、中米から南米と、スペイン語圏の旅を10カ月以上続けていたので、スペイン語のヒアリングは基本的にマスターしていた。スペイン語とポルトガル語は近い言語である。それでもネイティブ同士の会話を聞き取ることは難しかった。男が運転手に話かけている内容が何なのか? はっきりと理解できなかったが、「後ろに乗っているのは観光客か?」と言ったように思えた。聞き取れる単語の端々から、男はこのタクシーをずっと追ってきたようだった。ぼくらがタクシーに乗り込むのを見たのなら、「あの2人は観光客だ。金を持っているはずだ」と確信し、追ってきたのかもしれない。ーーなどと頭をめぐらせていた、その瞬間、

タクシーの運転手はアクセルをいっきに踏み込んだ。

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ぼくとA氏の身体は後部座席の背もたれに打ち付けられた。運転手はなおも急加速を続ける。

銃声は聞こえなかった。クルマの加速音だけが聞こえる。

「助かったのか?!」

A氏と目を合わせ、そのままリアガラスの向こうに視線を向けた。深夜の道路。人も、クルマも、何ひとつ視線の先に存在するものはなかった。銃を持った2人、彼らが乗ってきたクルマは、視界に居なかった。ほどなくして、タクシーの運転手は、通常の速度に切り替えた。何事もなかったように、荒木に向かって走り続けた。

安堵。そして、運転手がとった行動に、怒りと賞賛が入り混じった感情が沸き起こった。

「なんで逃げたんだ! なんでアクセル踏んだんだ! もし発砲したら流れで後部座席のぼくらに当たっていたかもしれないんだぞ! そもそもなんで止まったんだ!」

身振り手振り、興奮しながら、スペイン語混じりの言葉で運転手を攻め立てた。

運転手いわく、1人が窓から銃を構え、「止まれ! 止まらないと撃つぞ!」と合図を送りながら、ずいぶんと前から追われていたようだった。運転手は止まるのを当然のこと躊躇ったが、経験と判断でこの状況は止まったほうが安全だと考えた。だから止まらざるを得なかったと言った。ぼくらは、運転手のとっさの判断で、事なきを得たのだった。

荒木に戻ったぼくらは、まだ起きていた他のバックパッカーらに先ほど起きた出来事をまくし立てるように話したのは、言うまでもない。

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アメリカとブラジルでの2つ出来事を思い起こすたび。「幸運だった」と、その一言に行き着く。その状況を回避しようと、自身で何か行動を起こしたわけではなかったのだから。なすがまま、どうすることもできない状況で、結果的に、助かった。それ以上でも、それ以下でも、ない。

あとで知ったことなのだけれど。ヒューストンのユースホステルがあったエリアは、全米でも犯罪率が非常に高いと聞かされた。アメリカは銃社会である。相手も銃を持っている可能性がある。だから襲う側は「金を出せ」と言う前に、安全に襲うためにも相手を撃ち殺してから金を奪う。ブラジルもアメリカと同様、銃社会のひとつと言える。

そんな両国での出来事。もちろん、ヒューストンの実情を事前に知っていたら、そのエリアには近づかなかったと思う。サンパウロでは、いくら浮かれているからといって、深夜の外出は控えることもできた。避けようと思えば、避けられた出来事だったのかもしれない。

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無事に生還し、「幸運だった」と笑いながら振り返られるから言えることなのだけれど。

この2つの出来事はーー

何事にも変えがたい、ぼくの人生において絶対的な体験=事実として、鮮明に刻印されている。そして「旅」が教えてくれた貴重な“気づき”だったと、ポジティブに思っている。



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