Grazie

英語非常勤講師。英語が大好きです。努力が足りず道半ばでもがいています。English …

Grazie

英語非常勤講師。英語が大好きです。努力が足りず道半ばでもがいています。English is one of my treasures in my life.

最近の記事

やっぱり私は英語が好きなんです。

現在、私は教育の世界に戻っています。英語を通じて、私はまた教える世界に身を投じることになりました。 そして、その中で、より新しい世界を切り開くために、大学院に行く道を選びました。 大学院での学びは、全てが新鮮です。 ずっと英語が好きで、色んな本をいろんな角度から、ただ上達したい一心で読みましたが、 この研究の世界には、先人のすごい研究者の方々が、とても小さい事象に対しても、あーでもない、こーでもない、と知力の限りを出し尽くされて、何とか良い答えを出そうと日々切磋琢磨されてき

    • 無理?でも「通訳者になりたい!!!③」

      あの日はもうどんな風に家に帰ったのか、本当に記憶が無い。 女性社員の方は、こちらがひどいのに、すまなそうに送り出してくれた。さすがにちょっといきなりだったのかな、と思ってくれたのかもしれない。 そう、確かに、少し、あの監査話、前日までどんな話かも分からず資料もなくて通訳というのは、一定の経験者でもきついかもしれない。 でもあそこまでの皆無状態には、普通は、普通の通訳者はならない。やっぱりあの仕事をやってはいけなかったんだと、今本当に思っている。 その次の日だった。あの

      • 無理?でも「通訳者になりたい!!!②」

        大炎上・大やけどの初通訳のあと、どうしても状況を変えないといけないので、帰国子女の友人のMMさんにご協力を願い、自分がリードできる通訳の枠組み作りを必死で考えた。(もしご興味のある方は「無理?でも通訳者になりたい!!!」前回作を読んで頂けたらです。) どういうものかと言うと、こちらが相手側、海外社員のSkype上での会話に一定制限を加えさせてもらう、つまり私が全部話の進行役をして、会話を掌握できるようにする、というもの。 「こんにちは。私はご存知のように、前任者から変わっ

        • 無理?でも「通訳者になりたい!!!①」

          前回書いた案内所は一年で辞めた。県の観光課で働く求人があり、思い切って応募した。内容は県が発信する情報の翻訳等で、以前も同じような仕事を少しだけ経験、きっちり嘱託職員になって働きたい、と思った。 でも、その前の翻訳仕事でご一緒だったTOEIC満点の企業翻訳者が待合室に。転職希望で応募した、と。正直あの時諦めた、絶対敵わへんもん。はい、そしてさっさと落ちて。 無職になった私。うーーん、まぁ仕方ないか・・・。そんなところに、知り合いの英語関連グループから1本の求人メールが。

        やっぱり私は英語が好きなんです。

          宿題:「Queen」を熱唱すること!

          夢に見たT大学の講座、「観光ガイド人材育成プログラム」が始まった。 どんな気分だったかな~、ちょっと初日がどんな気分だったかは覚えていないが、すごくワクワク参加したと思う。 この授業は平日五日間、朝10時から12時過ぎまで、各授業は1時間ずつだった。 月曜はK先生の英語の授業2時間。火曜は大学先生、瓦の研究がご専門で、地域の古代史や歴史事象を習い、2時間目は仏教や仏像、寺社仏閣の建築様式、和食など日本文化事象全般に渡る授業、時には英語で講義いただき。水曜はネィティブ先生

          宿題:「Queen」を熱唱すること!

          「なぁ、高校一緒やったやんなぁ」

          前回「あ!英検の面接官や!!」から書き出した、社会人学び直し講座、「英検1級、TOEIC900、通訳案内士、これ3つ取って初めてスタートラインやで!」これはK先生が仰った名言中の名言。 1期の試験は敢え無く落ちた。試験はミニTOEIC, 日英・英日訳、そして英語面接であった。 1期の面接では外国人の先生に、なんで日本人はバスや電車で窓を開けないの?と聞かれ。これ、今でも上手く答えられるか謎。しどろもどろで言ったが結果アウト。仕方ない、この地域の英語のできる人がこぞって受け

          「なぁ、高校一緒やったやんなぁ」

          「あ!英検の面接官!!」

          英検準1級の二次試験の4コマ漫画、今なら即興で見てもやれそうな気がするが、あれはなかなか上達せず苦しんだ。 結局言いたいことをどれだけスッと英語で出せるかが鍵で、そう思うとあれから10年近く経ち、当たり前か、少しはそういう力もついたか、と思う。 あの時、あんまりにもうまく言えないので、20くらいの漫画の模範解答を全暗記した。でもまた新しい漫画を見ても、「・・・」、すっと言えない。うー、こんなん受からへんやん!!と思って苦しんだのを覚えている。 その最中に、海外勤務になっ

          「あ!英検の面接官!!」

          英検:一年で一点UPだけ?!

          今日まで細々と続いている私の英語の勉強は、この「英検準1級合格!」が始まりだったと思う。何だかこの頃から一気に元気が出てきた。 あの頃から今まで、基本英語についての考えはあまり変わっていないと思う。そう、今も未だ全く道半ばである。(じゃあもっとやりーさ、とは思ってはいる。思うのは簡単・・。) あの頃の私にとって、準1級はまだまだ難しかった。1番の語彙選択の、語彙も分からなければ、まず問題文がさっと読めずでひっかかる。そんなところからだった。 長文も全く分からなかった。何

          英検:一年で一点UPだけ?!

          「~~さん、ほんまに英語の先生やったん?!」

          下の娘の幼稚園時代は、概して平和だった。一番仲良くしてくださったお母さんは、おねーちゃんもおられ、幼稚園ママのお付き合いもスマート、家も近く、本当にお世話になった。 娘のお友達付き合いを考えると、女の子のお母さんとどんどん付き合いを広げる方がいいのだが、後で気付くのだが、これから幼稚園ママになられる方々、案外異性の子どもさんのお母さんとは、長く続くし、楽です。まず喧嘩をする心配が同性の子どもさんより少ない。ママ友と言うより自分の友達に結局なっているお母さんは、ほぼ異性のお子

          「~~さん、ほんまに英語の先生やったん?!」

          Viva! Italia!

          たまたまオンライン英会話で、今スペインに住んでて何回もイタリアに行ってるっていう先生と盛り上がった。今度もイタリアの話で盛り上がろう!って約束した。そう、行けなくなって数十年経つが、イタリアにだけ行ければ、私はもう他の国に行けなくてもいいと思っている。 これは数十年前に行ったローマ、サンタンジェロ城。「ローマの休日」にも登場するから、少し中心街から離れているが無理して行ったのである。 若い日の写真を使うようになったらもうおしまいか・・・。でもイタリアの写真はこの時代の物し

          Viva! Italia!

          ミッフィーちゃんが大好きだったKさん

          教師時代の話は、これまでの約20ほどnoteのお話の中にお腹いっぱい書かせてもらった。一生懸命やるくらいしか元々脳が無いのだが、一生懸命はしていたんだな、と再認識した。足りなかった教師だとは思うが、あの時代に関わった子たち、皆幸せになってくれてたらいいな、と思う。 離職後実家の店に勤めに行きだして1年半くらいの時に上の子を出産した。その頃には教師を辞めたんだな、という思いより、自分が新しい命を生み出し、その子を育てていくんだな、という思いが勝るようになっていた。あまり英語か

          ミッフィーちゃんが大好きだったKさん

          「お前んとこの店、下火らしいな」

          何だか、両親の店の事を前回書いたら、面白い?話を思い出してしまった。 私の家の店は、駅前商店街にあり、自分の店の事を話すのに何だが、大きな店で、当時は正直黒字。「~電化のお嬢さん」そんな子ども時代だった。 父は本当は医者志望医学部出身、と言っても体を壊し中退、出身とは言えないか。祖父は公立高校教頭にまでなった数学教師。私に数学の力量は全く遺伝していない。父も祖父もそれなりに勉強はできたかもしれない。 医学部で夢が叶わなかった父がなんとなく電気屋でバイトを始めたら、そこの

          「お前んとこの店、下火らしいな」

          「ちょっと!釣銭間違えてるよ!!」

          教師を辞めて、すぐに実家の商売の手伝いに入った。小さい時は自宅兼用だったので、実家からも近く、何だかボーっと新しい日々が始まった。 結婚を6月に控えていたので、その準備とか、色々あったと思うが、あまり覚えていない。「あー、教師辞めたんだな~」と言う思いの方が強かったかもしれない。 家業は電気店で、小さい頃からありとあらゆる電化製品に囲まれて大きくなった。新製品が出たらすぐに母はまず家で使った。スタンド型のドライヤーとか(あれは使いにくかった)他にも、その後ヒットせず今この

          「ちょっと!釣銭間違えてるよ!!」

          体育館の中心で「つまらない事」と教育をさけぶ

          自分で書いて寒くなるような、有名映画のタイトルをもじったタイトルを付けてしまった・・・。(映画、きっと辛くて見れないから見てない) どこでどう何を見失ったのか、学校を去る時には、空っぽの、うすっぺらい、何の功績も残さない、ただの26歳の新米教師ねーちゃんになってしまっていた。 最後担任をした中3生の子たちに、自分が結婚すること、そして教師を辞めることを伝えようとは思わなかった。「ふーん、そう。」きっとそんなくらいしか思われないような、そんな担任と生徒の関係にもう秋くらいに

          体育館の中心で「つまらない事」と教育をさけぶ

          100円の値打ちも無かった新米英語教師

          ここ2回くらいは、教師時代の中でも少しはいい思い出として残っていたような話。いえいえ、そんな話ばかりではなかったです。 一番では無いかもだけど、相当悲しくて、もうやりきれなかった話もある。 あれは中2生の担任の時。体育祭の前に全校で運動場の草抜きをしていた。皆でやればかなりの雑草が抜ける。場所場所ごとに抜いた草を固めるよう生徒は言われてて。 とにかく私は女子より男子に反抗された。きつかったんだろうな・・。中2生担任時も男の子がやりにくかった。 その草抜きの時に、クラス

          100円の値打ちも無かった新米英語教師

          嫌いなやり方&やりにくかったSくん

          4年間の教師生活の中でも、思い出に残っていることはいくつかある。中2生の担任をした時のSくんは、いい子だけど、掴みどころのないやりにくい子だった。でもその時はクラスメートの中では男女から人気があり、行事でリーダーシップを発揮できるのは彼だけだった。 シングルマザーの家庭、お母さんは綺麗な人だった。彼が問題を起こした時、お母さんのお店に行ったが、お父さんではないおじさんが、僕も聞きます、と同席。誠実そうな人だったが、なるほど、彼の寂しさの原因はここだな、と思った。お母さんには

          嫌いなやり方&やりにくかったSくん