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「ちょっと!釣銭間違えてるよ!!」

教師を辞めて、すぐに実家の商売の手伝いに入った。小さい時は自宅兼用だったので、実家からも近く、何だかボーっと新しい日々が始まった。

結婚を6月に控えていたので、その準備とか、色々あったと思うが、あまり覚えていない。「あー、教師辞めたんだな~」と言う思いの方が強かったかもしれない。

家業は電気店で、小さい頃からありとあらゆる電化製品に囲まれて大きくなった。新製品が出たらすぐに母はまず家で使った。スタンド型のドライヤーとか(あれは使いにくかった)他にも、その後ヒットせず今この世に無いような変な家電も結構あった。エアコンも各メーカーのものを各部屋につけ、どれが特に気持ちいいかとか。だから本当はエアコンや冷蔵庫、どこの製品が好き、など好みがある。(訳あって今我が家には一社しか無いのだが)変に電化製品にこだわりがあるのは成育歴から来ている。

最初は一つの固定した電機メーカーだけを取り扱う店だったが、父は割と強引で、最終的には総合家電販売店になったので、どのメーカーの商品も扱った。最後は倒産したのだが、両親への感謝の想いを込めて書くが、都道府県下で売り上げ1位を誇った時もあった。当時はまだ出たばかりの電磁調理器を使って、母は得意の料理を生かし教室を店の端で。確か一年で全国の販売店の中でも相当数の電磁調理器を販売した、とそのメーカーから表彰され、どこか旅行に連れてもらったりもしていた。

店の宣伝は、当時小学生だった私がすごく嫌だったのだが、「~~電化でございます~」と、ヘリコプター?飛行機?ではないか、とにかく上空からのコマーシャルが、土曜の一斉下校の運動場待機中に流れる。アドバルーンみたいなのも上がっていた。あれが嫌で仕方なかった。男の子らによくそれでからかわれた。結局店はバブル期に株式会社になったものの、バブル崩壊、その後大変なこととなっていく。

私が手伝いに入った時は、父の意地だけで継続しているような店だったと、今にして思えば思う。資金繰りが本当に大変で、結果的には、私の教師時代の預金も充当した。だから結婚してからの自分の自由なお金がなく、英語のために使えるお金はあまり無かった。(言えばきっと主人は出してくれたのだが)

でも最初は私もそこまで店の事が分かった訳ではなく、毎日「教師じゃなくなったんだな~」とボーっと仕事をしていた。

ある日、40くらいのおばさん(今はお仲間だろうが当時の私からはおばさん)が買い物に。そのおばさんが、担任をしていた~~くんのお母さんにそっくり。やんちゃな子で、学校で会えば、もうそんなに頭を下げなくていいのに「先生すみません!」と挨拶される。礼儀正しいというか、そういうお母さん。そっくりだった。

「あー、~~くん、第二希望の学校になっちゃったけど、元気かな、あのお母さんの事困らせてないかな・・。」そんなことをぼんやり思いながら接客。レジを打ち。すると、そのお客さんが、

「ちょっと、釣銭間違えてるよ!よく見て、違うやん!!」

「あ、すみません!失礼致しました!」「いいけど、びっくりしたわ!」

その時、現実を見せつけられた気がした。

あー、私もう教師じゃないんだな・・・。そう思った。

そんなの良くないと思うのだが、もう、こそばいくらい保護者に丁寧な対応をされる。20代の小娘が、教師、担任と言うだけで。そう、親御さんから見たら、まあ語弊はあるかもだが、子どもを人質に捕られているのと同じなのである。先生に嫌われる態度なんて取るはずがない。

このくらいの年のおばさんに、こんなきつい言い方で、釣銭間違えてアホちゃう?!みたいに言われたのは、何年ぶりだろう、いや大人になってからでは初めてだったかも。私は何かを誰かに教える仕事、少しは人から敬意を払われる仕事ではなく、お客様の苦情を真正面から受ける接客業、売り子になったんだな、と、どちらがいいとかではなく、自分の人生が大きく変わったことを、この出来事で強く認識した。

結婚しても大きく生活は変わらなかった。主人の勤務先の近くで住むようになり、それが今の自分の生活の拠点になるのだが、店までは電車で通うことに。

その道中に、勤めた学校の最寄り駅があった。駅としては2駅しか離れていなかった。ゆえに、クラブ越境で私の家の近くの高校に進学した生徒と、何故かよく駅で遭遇した。私も店が閉まってから、彼もクラブが終わって、夜8時前くらいだったと思う。

この生徒は担任を持ったことは無かったが、クラブもよく頑張る明るい好青年であった。

ある日その彼が、「あんな、皆にな、この電車待ってたら、~~T (teacherの略で、そんなあだ名で男子からは呼ばれていた)に会えるで、ってあいつらに言ってん。今日待ってるかもや。」

あいつら、というのは、noteにもこれまで書いてきたようなやんちゃ目の手を焼いた子たち。

その日はいなかった。後で聞くと電車を間違えたらしく。でもまたその次の日とかに駅で待っていた。私は降りないけど、ホームでわぁわぁ言って待っていた。2か月ぶりくらいだったかな、あの時。「しぃー!他の人おられるから。あんたら一体どんなして構内に入ってきたん?!」と言いながら。そして電車のドアが閉まり。手を振って、ドアが閉まった後の電車の中では、何だか皆が私を見てて恥ずかしく。すみません、と頭を下げる感じで。

でも私は「私はもう教師じゃないんだな・・。」そんな事を思いながら夜の車窓を眺めた。

店の内部の事にまで関わりだすと、子どもだから知らなかっただけで、あまりにも経理面でしんどい状況にあることが分かり、経理担当だった母との喧嘩が段々増える。このお店のお陰で不自由なく育ててもらいながらも、状況が厳しくなった一因が徐々に分かりだし。でももうどうにもできないところまで店の状態は悪化し始めていた。

そのうちに上の子を妊娠した。母がもう胎教に悪いから、と休ませようとする(行くと私がうるさかったからだと思う)。実際家から店まで1時間かかったので、少し緩やかなペースで。自宅にいる時間が増えた。

家のそばにクラブ活動で全国大会にもよく出ている高校があり。学校の音がいつも聞こえてきて、何とも言えない気分になった。もちろん自分で選んで辞めたのだが、学校の音が懐かしい。一人で家に居ると余計そんな気に。

ちょっと英会話くらいは再開しようかなで、これも以前noteに書いた、ずっと英会話を習っていたLisaに実家に週に一回教えに来てもらうことに。英語との接点は結婚後すぐはそれだけだった。

最後店は家電だけではもう上手く行かず、父の知り合いの伝手で、当時人気のあった通販のB級商品を販売したりもした。その管理は私がしていた。小さな家具も扱って、ある時通りがかりの外国人が、梅や桜の模様の入ったつい立を見ようと店内に。

「これは何のために部屋に置くの?」と。「これは部屋の間仕切りにも使えるし、もし畳の部屋をお持ちなら、装飾として使っても素敵かも。」などと、セールストーク。結局買ってくださったのだが、その外国人が「なんでこんなお店で勤めているあなたが、そんなに英語話せるの?」(誤解無きように、あの頃はまだ全然インバウンドなんてないので。今はお店に英語話せる方はいっぱいかと)

「私、春まで、中学校で英語を教えていたんです。」と。あ~、と納得くださり。

はぁ~。いつまで引きずるんかな、私、どんな風に生きていくつもりで教師辞めて新しい人生を歩みだしたんだっけ・・・?

もうお腹も大きくなったら、色んなこともそんなにできない、そもそも店の手伝いのために私は教師辞めたからね・・・。

自分でも答えにたどり着かないまま、あの頃私は、何となく毎日を過ごしていたように思う。(全然英語の話にFOCUSあててへん!もうこれは自分史だな・・・、またきっと英語も登場☆)


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