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体育館の中心で「つまらない事」と教育をさけぶ

自分で書いて寒くなるような、有名映画のタイトルをもじったタイトルを付けてしまった・・・。(映画、きっと辛くて見れないから見てない)

どこでどう何を見失ったのか、学校を去る時には、空っぽの、うすっぺらい、何の功績も残さない、ただの26歳の新米教師ねーちゃんになってしまっていた。

最後担任をした中3生の子たちに、自分が結婚すること、そして教師を辞めることを伝えようとは思わなかった。「ふーん、そう。」きっとそんなくらいしか思われないような、そんな担任と生徒の関係にもう秋くらいにはなっていたと思う。

1人、男子で、とてもリーダーシップのある、一本筋の通ったような生徒がいた。ものすごくストイック、クラブも成績も超トップ級だった。そんな真面目な子だが、喧嘩はめっぽう強いらしく、どんなやんちゃな子も彼には絶対逆らわなかった。男の子って小学校の時から繋がっているのでそういう力関係はあるようで。

でも自分に厳しい彼は周りにもすごく厳しく、正直少し仲間からは疎ましく思われていた。でも私は彼の性格の、芯を貫くようなところが好きだった。

卒業の1か月くらい前、何かクラスで問題があって、もう最後と思って、生徒たちに思っている私の全てを、すごく心を込めて話した。でも伝わっていない感じ・・・。

職員室に帰ろうと思ったら、その男子生徒が、「先生、何そんな焦ってんの?悪いけど今日の話、特に男子には何にも入ってないで、あいつ頭おかしなったんか?とか言われてるで。どうしたん?最近おかしいで。」と。

この生徒はお母さんも元教師。よく私の事見てるな~だった。成熟した生徒だったので、思わず話してしまった。

「~くん、私な、実は教師辞めるねん、結婚するねん。だから私、先生なのはもうあと1か月くらいやねん。でもな、このまま終わるの嫌やねん。本当は何かをあなたたちに残したいねん、でも空回りばかりする・・。」

教師が生徒に相談してどうすんねん・・・。でもその子は丁寧に聞いてくれて「俺のおかんも教師時代の話、そんな風に言うわ。でもな先生、焦ってもそんな簡単に人は変わらないで、伝わらなくてもいいから、もう先生らしくでいいんちゃうか・・・。」と。

どっちが大人か分からない・・。この子の言う通り焦って空回りしていた。この生徒は風の噂によると現在中学校の先生になったようだ、きっといい先生になっていると思う。

退任日は3月31日。管轄の市の教育委員会で学校異動者・退任者の式典のようなものがあった。何でか全然分からないが、私が代表で言葉を言わなくてはならず、何か適当に話した。退職金は、ずばり23万くらいだった。初任給と変わらない。多分振込でもらったのか。60歳まで勤め上げて頂くウン千万円の恩給とはえらい違いである。(当たり前)

4月1日は新聞に退職者や先生方の異動が公示される。おそらくあそこで生徒たちは私が退職することを知ったであろう。2日は学校で離任式だった。

体育館に向かって右から旧1年生、社会を教えた学年である。真ん中が旧2年生、クラブの子くらいしか繋がりは無い。左端にはもう制服ではなく私服で立つ、何十人かの卒業生。クラスの子もいたが、特に記憶があるのはクラスの男子の大人しかった子たち。

他のやんちゃな男子は私を嫌ったけど、この子たちは普通の対応だった。でもその中のUくんは、そのやんちゃな子たちからしばしば容姿や行動をからかわれがちだった。真面目な生徒だった。

秋頃、かなり面談等で忙しくなってくる中、Uくんが、ちょっと実は困っていることが、と私を廊下の端に呼んだ。聞くと、実は夏からこれまでに、上靴をもう三回買い直しているらしい。盗られているんだ、という事。そして話を聞くと、どうも、~くんが取っているという事。穏やかな話ではない。

2人で、皆が下校してから下駄箱を見ようか、となった。その疑わしい~くんとUくんは苗字の下2文字が同じで、かかとのところの記名は、上2文字だけなんとか消して上書きすれば、自分の物のように履ける。

そっと見てみると、やはり~くんの上靴のかかと、上の2文字が不自然に消され、その上2文字は太いペンで書かれ、下2文字だけはUくんの字のまま。

「多分そうかな・・・。どうする?指導しようか?」Uくんに聞いた。

「もっと嫌がらせされてもかなんし、仕返しも怖いから、もういいわ」と。先生がここまで親身になって、二人で探偵みたいに調べて、もう僕それでいい、と。先生ありがとうな、とまで言ってくれた。

その後そのまま下校するUくんに付き添い、親御さんに経緯を説明、上靴代を何回も払っているのは親である。親御さんは、分かりました、でもこの子がもういいというなら、卒業までですし、と。先生お手数お掛けしました、とこちらが恐縮するような対応だった。

多分盗っていた~くんは、一年の時も担任だった。「なぁ、~、あんたいっつもかかと踏んでて注意してたけど、全然かかと綺麗な靴で。最近いつも靴綺麗やな。」と。「うん、そうや、僕な、もうそういうの綺麗に使うようにしてん。」と少し焦った顔。「ふ~ん、そうなんや、かかとの字、なんか上2文字だけ太いペンで書いてない?なんか変やな。」「うん。」とだけ言って、サーっと向こうへ行った。釘くらいは刺しておかないと、やられっぱなしの子の我慢ばかりになる。Uくんの上靴事件はもうこの後は起きなかった。

そのUくんも、他の子と一緒に、その日、離任式に参加していた。

異動する先生ら、辞めるのは私だけだった。体育館の舞台に上がる。皆がじっと見ている。私の挨拶の順番になった。

「あの、私は4年間しかこの学校で教師として過ごしていないのですが、この度教師を辞めることにしました。結婚します。」こんな風に話し始めた。

「私は今年卒業した学年で英語を教えていましたが、悔いの残るような事も無くはないですが、皆と過ごした時間は私にとって・・・」と、まぁ、普通のありきたりの話を始めはつらつらと話していた。

これが最後か、私が教師として、未来ある子どもたちに教師として話しかける最後の瞬間か・・・。

子どもたちの顔をみていると、何かが、そう何かが急に、私の中でぱっと燃えた。

「あのね、私ね、そんな綺麗ごとばかり言っているけど、本当はね、こんな教師になりたかったんじゃなかったの。」と。

「初めはね、未来ある皆に、英語も、それから生きていく上で大切な事とかも、教えたいこといっぱいあったのね。でもね、何だか、学年で決めたことなら歩調合せみたいな、ベル着とか名札チェックとか、廊下右側歩こう運動とか、風紀も大事だし、ちゃんとチャイムと共に座れていないとそりゃダメだけど、じゃあ本当にそれができていない子ってダメな子なの?守り事が少し守れていないだけで、そんなに全部否定するみたいに。気付いたら本当に教えなきゃいけない大事な事よりそんなくだらない事ばかり注意する教師になってて。そんなつまらない教育。違うでしょ、もっと皆色んな可能性秘めている。そんなこと、一教師がそんな小さな枠だけで決めつけたりできない。本当はそんな、皆が希望ある未来に向かって行く、その可能性をどこまでも応援できるような、そんな教師になりたかったの。」

どんな思いで他の先生聞いていただろう・・・。辞めていく人は好きに言えていいわな、だったと思う。

でも私はその時の、クラスの男の子たち、Uくんや他の子が私を見つめた眼差しを決して忘れない。最後の一年、私はいいクラスは作れなかったかもしれない。でも私はそれだけは、それだけでいいから誇らせてほしい。どんな瞬間も、私は教師として、適当にしたり、いい加減にしたりだけは決してしなかった。あの最後の彼らの眼差しは、一年間くすみ続けた私の中にまだかすかに残っていた燃える火を、確実に見届けてくれた目だった。

私はあの子たちのあの眼、私の、私自身の教育に対する本当の叫びを聞いてくれた眼を、きっと、ずっと忘れない。

降壇した。そして、私の、17歳から夢見た、教師としての4年間は幕を閉じた。

ここまで書いてきた私の教師時代の話は、勿論オールノンフィクション、全て本当に私の体験したことのままである。

ずっとブラックボックスにしまうかのように、悪い思い出として封印してきていた。

でも、ここ何年か、子どもも成長し、自分がこれから何をしたいのかを見る時に、何かぼやけて答えにたどり着かないような、歩みながらもモヤモヤしたものがあった。

しかし、今回、たまたまお友達らの影響を受けて書き初め、書いて自分の中身をさらけ出すことで、思いもよらないような自分を再認識することができた。

また学校で、とは正直あまり思っていないのだが、コロナで延びてしまっている大学教育に携わる話が一件ある。このブログで自分の教師時代を振り返れた事は今後の自分の仕事にとって大きかったと思う。

コミュニティ通訳、通訳案内士、そしてその教育の仕事、何をしていくにも、まず言えるのは、今の英語力では全く足りないということ。苦しかった教師時代に私を助けてくれていた一筋の光り、English、英語。この後はその英語についての話にFOCUSを当てていきたいと思う。

私自身のつまらない話を読んでくださった、もちろん知り合いや友人もいます、そして全然私の素性など知らないのに読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。全ての皆様の生き方に恥ずかしくないような私でいられるよう、今日も明日もこれからも、精一杯、私らしく生きていきます!

コロナ時代に負けずに一緒に頑張りましょう!!

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