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「お前んとこの店、下火らしいな」

何だか、両親の店の事を前回書いたら、面白い?話を思い出してしまった。

私の家の店は、駅前商店街にあり、自分の店の事を話すのに何だが、大きな店で、当時は正直黒字。「~電化のお嬢さん」そんな子ども時代だった。

父は本当は医者志望医学部出身、と言っても体を壊し中退、出身とは言えないか。祖父は公立高校教頭にまでなった数学教師。私に数学の力量は全く遺伝していない。父も祖父もそれなりに勉強はできたかもしれない。

医学部で夢が叶わなかった父がなんとなく電気屋でバイトを始めたら、そこのオーナーにえらく気に入られ、もう引退するから、と店をくれたらしい。それが全く異業種に足を踏み入れた父の変な?人生の始まりである。

母は高校出だが、自称優秀な高校生だったらしく。英語はトップだったと本人が言うからそういうことに。先生からなんで大学進学しないの?と散々言われたらしいが、家計が許さなかったらしい。昔の人はこういう事、多かったように思う。だから、年老いた方の知識量は時に半端ない。

全国通訳案内士試験の時に無理やり英語プレゼン練習に付き合わせたが、分かる単語があったら書き取り、「これ合ってない?私すごくない?」と喜んでいた。確かに勉強してたんだな、の形跡はあったかも(ということに)。

しかし肩書は「商売人」。故に子どもへの教育は熱心、特に兄は小さい頃から徹底的に勉強させられ。私は普通の期待度だったが、兄を見ていたので、勉強できたら親に喜んでもらえるんだな、と常に思っていたかもしれない。

私は今では考えられない、小学校途中までは内気な子で、一人くらいしか友達がいなく、先生に、もっとたくさんのお友達と遊ぶようによく言われた。

その友達と仲たがいしたのか、違うお友達と遊んだ小4が私のデビュー、急にクラスで中心的な女子のグループに。おしゃべり性質も開花してしまい。

担任の先生の影響もあった。小3,4年の先生はとても熱心で私たちを大切にしてくれる若い男の先生であった。100点は満塁ホームラン、90点台はホームラン、以下60点くらいまで、全部先生のお手製ハンコを押してくれて。富士山が何より好きな先生で「日本一のクラスにしよう!」いつも先生は日本一=富士山を目指され。息子さんにも山の名入りの名前。筋金入りである。

宿題は毎日日記だった。先生も学級通信を毎日出される。私たちの日記を、贔屓なく、良いと思うものを同じ回数ずつ載せてくださる。兄がいつも私と喧嘩になると「お前は俺が橋の下で捨てられてるのを拾って来たんや!」と言い。少し子どもの時信じていた。その日記を先生がイラスト入りで載せてくれたことを今でもよく覚えている。

今文章を書くのが好きなのも、この先生の日記のおかげ。子どもは外で遊べ、と先生お手製の日本横断地図があり、校庭を何周走ったら私たちの地域から富士山に着くかという企画があり、冬でもいつも校庭を走っていた。おかげで運動音痴だった私もマラソンに少しは強くなり。確か29位だったのを覚えている。120人中くらいかな。でも上位は皆私のクラスの女子だった。

大好きな先生だった。小5になる時学校は人数が多すぎて半分は新設校に。今の少子化時代には無い話。それまで一駅分くらい歩いて登校していたが、近所の新設校にかわり。先生もこちらへ赴任。しかし他学年を担任された。

私は5年生になり学校も二つに分かれたため、気の強い女子も半分に。更にそれが5クラスに分かれ、気付けば昔は内気だったのに、当時は身長も高い方だったので、男子に全く負けないクラスの女番長?みたいになってしまった。そういう時期だと思う、あの時って。

小5,6年の時の担任は、本物の”おばさん”って感じの先生。嫌だったのが超男子を贔屓。子どもながらにこの教師おかしいんちゃうか、といつもそんな目で見てた。自分の息子も男の子で、同じように感じていたのか、なんぼ露骨なおばはんやねん、で正直嫌いだった。

男子は可愛がられてばかりで、そりゃいいわ、で。その中で、ある男子が(全然余談だが、この子、ただのでくの坊みたいな子だったのに、中学から私立へ、私はその私立の高等部から入学、入ったら、この子サッカー部で大活躍の超モテ男になってて。幼馴染のよしみで、帰り一緒になったりで、当時この子が学年一の美女と付き合っていたがふられ、そんな話を聞いているうちに私が好きになってしまい。散々仲良くなったのに、告白したら、ふられた。何やってん、あれ!!!って今でも言いたい。)

改行、その男子がその先生に何をゴマすりたかったのか「~先生は本当にいい先生で、同じ名前でも~年生を教えている~~先生とは大違いだ。」と日記に書いたのだ。その「他学年」の先生は、私の大好きな小3.4年の先生。どちらもN先生、同じ苗字だった。またそれをこのおばはん担任が喜び。大好きな先生をディスられたのと、それをこのおばはんが学級通信に載せたのがむかつき。嫌いなのはMAXになった。

6年生だった。まぁまぁ怖いもの知らずだった私は、確かに偉そうにもしていた。そんな私を、男子があるネタを使ってよくいびってきた。そう、店の話である。私の店の商店街には、もう一つ電気屋があった。そちらはある一つの人気メーカーを扱った店。うちの店が総合家電販売店に変わってからは、そのメーカーの社員割引証を持ったお客様もうちへ流れてくださり、そちらは追々店は閉められた。しかし6年生くらいの時はあちらも盛況で。

そのお店がうちわを配ったり、時には先着何名様にケーキだとか。その後数年で閉店されたが、もしかしたらあの頃は必死に集客をなさっていたかも。

しかし、そういう催し、だいたい日曜に。すると月曜には男の子たちが一斉にそのうちわを学校に持参。「あー。~電気店のうちわはいいわ~、誰かのとこの~電化とはえらい違いや。」本当によく言われた。私もそれくらいきつかったのか。何とか言ってコイツをこらしめてやろう、、だったようで。

ただ、ある日。これだけは絶対許すか、ということが起きた。忘れもしない、運動場での体育、確か跳び箱の日だった。ちょっと目立った男子が10人くらいいたら、その下っ端の方の奴。大して気も強くない。そいつが、跳び箱を並んでいる時に、何を一人で私に絡んで来ようとしたのか(偉そうすぎ)こう言ってきたのだ。

「おい、俺のかあさんに聞いたけどな、お前んとこの店、最近下火らしいな。」

下火・・・。これは腹が立つというより、もう絶対許さへんと思った。どんなに私をバカにしても侮辱してもいい、でも、店の事を、毎日毎日必死で働いている、その親の店のことを、こいつ、下火って言うたな・・・。

絶対許さへん。次の瞬間、逃げられないようにと胸倉捕まえて、思いっきり右のほっぺたをどついてやった。ビンタを喰らわしてやった。もちろんそんな事は後にも先にもしたことはない。

「うわ、こいつ暴力ふるいよった、うーわ!」まあそんな程度の奴だった。かかってくるならかかってこいや、それくらいこっちは思っていた。とにかくそれだけは絶対に許さへん、そうとしか思わなかった。

給食の前だったと思う、男子たちが一斉に言いに来る。「おい、お前、~~殴ったらしいな、先生に言うたるからな、暴力やんけ!」

オール無視。なんぼでも言え、って思ってた。言葉の暴力はえーんか、そう思っていた。

給食が終わって、昼休みに入る時、先生が大声で私を呼んだ。「~~さん!!あんた、~~くん殴ったらしいやないの!急に訳なく殴ったらしいやん!こっち来なさい!!」

訳なんかなく殴るか、こんなおばはんに何言っても拉致あかんし・・・。ふいって無視して教室を出て行った。そんなん知るか、って思いだった。

5時間目教室に戻ったら、おばはん怖い顔してる。もういいか、だったが、どうも私を睨んでいない。しかし顔は鬼の形相である。

「5時間目は変更して特別授業にします。今日体育の時間、~~さんが~~くんの顔を殴る、という事がありました。それ自体はもちろんいけない事ですが、何故~~さんがそこまでの事をしたのか、女子の皆さんが私に教えてくれました。~~くん、あんた、~~さんのお家のお店の事、下火やって中傷したそうですね。それと更に聞きました。これまでも男子の多くが~~さんのお店の事で、あること無い事言って嫌がらせをしていたそうですね。情けない。~~さん、気付かなくてごめんなさい。これまでのあなたの嫌だったこと全部今ここでぶちまけてください。」

びっくりした。話が全然変わっていて。後で友達らに聞いた。おばはん担任が私に昼休み絶叫した後、親友のHちゃんが、泣きながら、先生それは違う、これまで~~ちゃんはどんなに辛い思いしているか!と状況を全て話してくれたそうで・・・。

急に話を振られ戸惑った。立って話すしかなく・・・。話し出したら、まあそんなもんである。涙がぽろぽろこぼれ・・・。

「私の両親は私が小さい頃からいつもお店の事してて、母は寝たきりのおばあちゃんの世話もしながら、いつも7時に帰って来てからご飯作って、お父さんは、いつも11時くらいにならないと帰ってこなくて、すごくすごく頑張っているのに、そんなお父さんやお母さんの店を下火なんて言われて、お父さんもお母さんもあんなに頑張っているのに・・・。」

もうこれ以上言えなくて、泣きじゃくったのを覚えている。

もうここからはN先生と呼ぼう。前をみたら、先生も泣きじゃくっていた。

「~~さん、ごめんな。私あなたの事、気の強いばっかりの生徒だと思って、扱いが難しいな、って思ってた。自分のご両親のお店の事そんな風に言われても、私に何も言うてこなかったのは、あなたが私を信頼してなかったからやな、本当にごめんな。」と。

そして続けて「男子の皆。私は今回の、この、人の一番辛いところをえぐったようないじめ方を絶対に許しません。親御さんのお店を誹謗の対象にするなんてあまりに汚い。今ここで、一回でも~~さんのお店の事を彼女の前で非難した人、立ちなさい!!」N先生はそう叫んだ。

まあほぼ男子全員が起立。彼らは私がいいと言うまで、毎日私に謝らないといけない、とN先生が決め。

次の日から、私の机の前は長蛇の列。私はもういいよ、って感じだったのだが、仲良し4人組だった後の3人の友人が、「私らがちゃんと裁定してあげるわ」と。この裁定がなかなか厳しく、笑って「ごめんな」なんて言う男子は「あんた散々言うてたやろ、やり直しや!」などと言われ・・・。

でも一人だけ(高校で好きになったあの子は適当な謝罪やった、そんな奴や)男子の中でもリーダー的な子、もちろんこの子にも散々言われた。この子が「ちょっと・・・。」と。

渡り廊下に呼ばれた。なんや、”サシ”で勝負か・・、と思ったら、彼は急になんと土下座をしたのである。頭を廊下に擦り付けて「ほんまに悪かったごめんなさい、蹴るなり殴るなりなんなりしてくれ」見たら彼は泣いていた。

後で男子に聞いたが、あの気の強い~~が親の話であんな気の弱い女子のように泣いた、と皆本当に驚いたらしく。(ほんとは気弱いねん!・・。)

「そんなんもういいよ、分かったからそんなん止めて。」起き上がってもらったがまだ彼は泣いていた。後で母から聞いたが、彼のお母さんはPTAでもやり手で、母曰はく、よく学校の為にもされる良いお母さん。あのお母さんなら人としてどうなんや、とあの子にきつく諭されたんちゃうか・・と。

実際その子は中学高校と野球部のキャプテンになり、地元の高校初の甲子園出場を果たし、チームでよく活躍していた。大学の時に一度ホームで会って挨拶したが、しっかりした青年になられていた。

N先生の事も私も考え直した。こちらも態度が出ていたんだと思う。あの時先生が男子に怒った姿は、多分2年間で一番怖かった。自分のためにそこまで怒ってくださったことをとても感謝した。もちろんその後店の事を持ち出す男子はいなかった。

その後大変だったのが、出来事を泣いて聞いた母親が、もう商店街中のお店、あの電気屋以外はほとんど昔から一緒、子どもも似たような年齢、どのお家でもいつも遊ばせてもらい。そこのおばちゃんらに、母が泣きながら「~~が私らの事をこんな言うてくれて~」と話したもんだから、もうそれから1か月くらいは、おばちゃんらの店の前通るたびに「~~ちゃん、あんた男の子殴って店の評判守ったらしいな!よくやったわ、全部の話、おばちゃんにも聞かして!」と。20くらいの店があったので、もう通るたびに皆から言われ・・。私見て泣いてしゃべるおばちゃん、私に抱き着くおばちゃん・・。時には店主のおっちゃんらも出てきて・・。当分は武勇伝として語られてしまい・・・。

懐かしいなぁ。あの時代が店の黄金期だったかも。大きくなって株式会社にして、共同経営者と大きなショッピングモールに出店もした。(当時でも賃料月一坪100万)そんな中すぐにバブルの泡がはじけ。その後最後は共同経営者の方は夜逃げ。そんなのドラマの中だけかな思ってた。もぬけの殻、っていうのを店の手伝いに入っていた私も見た。両親はその人らをもう責めていない。皆苦しかったから、と。でも一気に倒産への道が固まった。

前回のnoteにも書いた、上空から店のコマーシャルを流すという話、数日前父に聞いた。

「あれヘリコプター?飛行機?」答えは「セスナ」だった。「セスナで店のコマーシャルなんて高ったんちゃうん?」と私。「うん、高かったよ」と。「でもやっぱ効果はあったん?」と聞いた。

「あー、そりゃ、もう抜群やった!」久しぶりに父の自信に満ちた声を聞いた。倒産してからは病気がちになった。今は私の近くに呼び寄せて住んでいる。一回贅沢をした人間がお金を締めるのは難しい。私はサラリーマン世帯。そこまでの贅沢はしない。散々最近まで喧嘩してきた。

でももう父に、この頃の栄華を少し話してあげてもいいかもしれない。子どもの時、あるクリスマスの時、家の玄関に20個くらいクリスマスケーキの箱があり。「今年こんな食べんの??」って聞いたら「違う、お客さんのや。お正月に向けて無理していいテレビ買ってくれはった、せめてクリスマスケーキくらい渡したい。」そんな父だった。もっと割り切る人だったら、店もつぶれなかったかもしれない。汚いことは一切しない両親だった。

「色々あったけど、あんたら子どものためには、死ねんと思って、生き恥かいて生きたんやで」って倒産後母は言った。

もう少し老いた親を大事にしよう。そして気持ちよくいつか送り出してあげたい。いつか私もきっと追い掛ける日が来るからのだから・・・ね。(天国行く前にこれ読ましてあげよ。)
(画像の花はこの年の母の日に、母に渡したお花🌼)



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