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ミッフィーちゃんが大好きだったKさん

教師時代の話は、これまでの約20ほどnoteのお話の中にお腹いっぱい書かせてもらった。一生懸命やるくらいしか元々脳が無いのだが、一生懸命はしていたんだな、と再認識した。足りなかった教師だとは思うが、あの時代に関わった子たち、皆幸せになってくれてたらいいな、と思う。

離職後実家の店に勤めに行きだして1年半くらいの時に上の子を出産した。その頃には教師を辞めたんだな、という思いより、自分が新しい命を生み出し、その子を育てていくんだな、という思いが勝るようになっていた。あまり英語から話が逸れ過ぎるのもだが、やはり子育ての話を全部飛ばすわけにもいかない。何故なら、教師時代の後、私が一生懸命したことと言えばやはり子育てになってしまう。

店は最後はほとんど開いているだけの状態で、父はその時いろんな旧知の弁護士さんに相談「もう一日も早く諦めた方がいい」と言われていたらしい。もう店がつぶれるのは時間の問題だった。

それでもまだ少し持ちこたえていたので、私は出産後も、実家で生まれたての息子と少し暮らすことに。大好きだった応接間にベビーベッドを置いて、母が良く世話をしてくれた。その2年後に下の子を授かるが、その後店は倒産する。生まれたての二人の写真は実家の応接間での写真が多い。それだけでもせめて良かったなと思う。その後、店もそして大好きだった家も全部なくなってしまった。(スタインマイヤーのピアノだけどうにか先に動かすべきだった、が唯一の後悔)

生まれたての赤ちゃんを「可愛い」ともちろん思ったが、最初に私が思ったのは、この小さな小さな生き物、私がちゃんとお世話しなきゃいけないんだ、という思いだった。

最初の子、男の子で、母乳をよく飲んだ。この子の困ったのが、赤ちゃんの味覚ってすごいと思うのだが、足りないのに一切粉ミルクを飲まなかったこと。哺乳瓶を加えさそうとしても、一口飲んだら、哺乳瓶を口から外す。ある時はこっちの方がいい、と言わんばかりに母乳を飲もうとして泣き出す。お腹が空くのでなかなか寝ない。これは困った、と言う訳である。

先輩ママの友人に聞き、桶谷式という母乳を出すための教室があり、通うことに。食事指導他徹底していて、すぐに改善が見られた。毎食ご飯2杯に必ずお汁を飲むようにと言われ。結果息子の満足する母乳量になり、夜泣きなどは一切無かった。(苦労したこと感謝せぇよ!って今でかくなった息子に言いたい。)

もちろん当分店には行けなかった。息子を育てるので精いっぱいだった。英語なんてその時はとんでもない。こんな小さい赤ちゃん、首も座っていない、本当に最初戸惑った。3か月の時に熱を出した時は本当にどうしようと思った。小さくて弱くて、自分がしっかりしなきゃ、毎日そんな思いだった。

今はでかくなってしまったが、小さくて可愛かった。そうして皆世の女性は夫を大事にしなくなっていくのである。(私だけか)そういう訳ではないのだろうが、それほど子育ては大変なのである。

子育て時代を語るのに忘れられない人がいる。最初のハイツに住んだ時の隣人Kさん。私たちの地域辺りではぶっちぎりトップ、いや日本でもほぼトップの大学理系出身。英語はペラペラ。初めお仕事を「シンクタンク」?と言われ、下水管の仕事?でもしてるんかなと思ったら、「Think Tank=頭脳集団」である。話す話がそれまでの私の知らない分野のことばっかりだった。

最初に言われたのが、今はもうミルトンとは言わないかな。哺乳瓶などの消毒液。「こんなん絶対使ったらあかんよ!」と。あれは次亜塩素酸ナトリウムが入っていて、ハイターと同じ効果。彼女曰はく、人間の臓器はほぼタンパク質から作られていて、次亜塩素酸ナトリウムはそのたんぱく質の汚れを分解する?から綺麗になる、そんなんを赤ちゃんの口に入るものに使ってそれが胃にも入るなんて!と。

昔流行ったベストセラー「買ってはいけません!」も彼女から。食べ物の袋の後の添加物は上から順に含有の多いものから記載されている、やシャンプーなどの有効成分は何にも良い成分ちゃうんやで、危険な物やから使ってますよ!ってわざわざ表示しなあかんから有効成分なんやで、とか。本当にそういうことを全部彼女から教わった。

彼女には優しいご主人様がおられたが、子どもはいなかった。私より少し年上で、本当に息子の事を可愛がってくれた。

彼女には心臓の持病があり、だから子どもは作れない、と。でももっと悲しい話をしてくれた。私はもし親になったら、きっと虐待してしまうの、と。彼女のご両親は東京の日本一難しい大学出身、学生運動の盛りにできちゃった婚で彼女を授かったと。お父さんはその後社会復帰するが、若くで身ごもったお母さんには母親になる道しかなく。頭のいい、やり手のお母さんだったらしい。そのお母さんが、彼女が物心ついた頃には毎日のように「あんたたちさえ生まれなきゃ、私は今頃もっと社会で活躍していた。母親になんてなったせいで私の人生はボロボロになった。」そう夕方になったら泣き叫ばれたらしい。それを彼女と1歳違いの妹さんはただじっと聞くしかなかった。精神的虐待である。

時には耐えられず外に出て夕方の公園で一人泣いたそうである、「私のお母さんはなんて可哀相なんだろう。」って。子どもってそういう風に思うんだな、だった。でも彼女は中高と成長、交換留学で渡米し自立、母親の理不尽な泣きは間違っているんじゃないか、被害者はむしろ私なんじゃないか、と思い始める。

彼女はよく言った。「NHKの『おかあさんといっしょ』を見ると涙が出てくるの、何でか分からない。」と。「虐待はループする、された人はしてしまうっていうでしょ、それが怖いの」と。

話を聞きながら思った。私も色んなしたかったことを成せぬまま母親になった。そんな風になってはいけないな、自分が何故この道を選んだのか、よく認識しておかないとダメだな、と。

優しい人だった。ミッフィーちゃんが大好きでいっぱいお部屋に並べてた。彼女は子ども時代、暖かい愛に飢えていたのかもしれない。

でもある時、彼女に聞かれた。「私、どんな母親になっていたのかな?もし子ども授かってたら」って。一緒に一年間くらいご近所づきあいをし、困った時は助けてもらい・・・。普通に答えた。「Kさん、いいお母さんに普通になると思うで」って。

その私の言葉が彼女を突き動かすほどのものだったのか、と思うのだが、彼女は子どもを授かってみようかな、と考えるように。でも持病のある心臓が出産に耐えられるかどうかが課題だった。結果ご夫婦で相談して、二人で生きて行かれる道を選ばれた。

とにかく賢い人で、よくもっとこうした方がいい!って注意もされ。私も数年後に引っ越しし、だんだん疎遠になってしまった。でも、あの結婚したての、一番不安定だった時期に彼女と出会ったことは大きかったな、と思っている。

「私やりたかったことがあったかも、その道に進んでいたら今頃ここで子ども育てていないかも。」って彼女に言ったら、「ダメよ、あなたが選んだんだから、生まれてきた子に、あなたの人生を乗せないで。」そうはっきり力強い目で言われた。

年賀状もどこかで途絶えてしまった。Kさん、私ちゃんと2人とも成人させたよ、それで「あんたたちのせいで!」なんて言わないでいいように、育てながら細々でもずっと夢追い掛けながら英語勉強したよ、それなりに人並みくらいの母親にはなったよ、今度会ったらそのこと褒めて!!

どんな風に生きているかな、せめて彼女がもう「おかあさんといっしょ」を見ながら泣かないようになっていてほしい。あなたがどんなに辛かったか、私は忘れないね。Kさん、いつか連絡取ろうね!



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