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なんだかね ときどき小説 そして随想

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昭和にこだわり、自身の体験をベースにした私小説以外にもエッセイや物語を書いて行きます 昭和という時代背景と共に読んで頂けたら嬉しいです 時折当時流行った楽曲のリンクを入れています…
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#先生

せんせいさようなら みなさんさようなら ~ 塾通いの思い出       1968~1976 最終章

せんせいさようなら みなさんさようなら ~ 塾通いの思い出       1968~1976 最終章

その12
高校生時代

 我々は晴れて高校生になった。東高に受かった3名の男子と女子1名、北高に受かった女子2名に加えて、4月から新たに入塾してきたやはり東高の女子2名の計7名で高校時代の塾通いがスタートした。当然大学受験を意識しての再スタートだったが、大半の生徒は塾を卒業し去っていった。そして、ここまで書いてきたような小中時代と塾生活の空気は一変した。まず先生の態度が変わった。どのように変わった

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せんせいさようなら みなさんさようなら ~ 塾通いの思い出       1968~1976 第5章

せんせいさようなら みなさんさようなら ~ 塾通いの思い出       1968~1976 第5章

その10
 この頃の私のことを少し話すと、停滞していた成績が中3に入った途端、理由はわからないが模試でいきなり10番以内となった。これには私が一番驚いた。奇跡であった。母親は無邪気に喜んでいた。この成績を維持できれば東高も夢ではないと思い始めた。この頃から先生の私への接し方も少しだけ変化してきたように思う。時を同じくして坊主頭を伸ばしてよいというお触れが出た。つまり髪を伸ばすことが解禁となった。2

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せんせいさようなら みなさんさようなら ~ 塾通いの思い出       1968~1976 第4章

せんせいさようなら みなさんさようなら ~ 塾通いの思い出       1968~1976 第4章

その8
中学生時代

 そんな2年半を経て我々は小学校を無事に卒業し、少し離れたところにある青園中学校に進学した。小学校時代の塾生たちは各クラスに散ったが、この中学校は私たちが通った聖雲小学校と新川小学校の2校の生徒の合同であり合計7クラスになった。そこでつい数か月前に洗礼を浴びたように、またしても私はくりくり坊主頭で、しかも大きめの詰め入りの学生服姿、首が短く小太りで登場したのだから、初顔合わせ

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せんせいさようなら みなさんさようなら ~ 塾通いの思い出       1968~1976 第3章

せんせいさようなら みなさんさようなら ~ 塾通いの思い出       1968~1976 第3章

その6
 ここで先生のことについて知っている限りを書いてみたい。
風貌は芥川龍之介に似ていた、と思っている。他の生徒にそんなことを言った覚えは無いし誰からも聞いたことも無いのだが、私は勝手にそう思っている。有名な芥川の口元に手を当てた和服姿の写真の顔にセルの黒縁眼鏡を掛けたらそっくりだと思う。髪型も同じ。そこに少しだけ無精ひげを鼻の下に添えたら出来上がり。また、少し違うのだが、ソフトをかぶり和服を

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せんせいさようなら みなさんさようなら ~ 塾通いの思い出       1968~1976 第2章

せんせいさようなら みなさんさようなら ~ 塾通いの思い出       1968~1976 第2章

その4(第1章からの続き)
そしてこの塾で待ち受ける最大、最悪のルールが次である。

   中学に入る前に、男子は全員10円ハゲがあろうとなかろうと、頭の形が良かろうと悪かろうとに関係なく、坊主頭になることを強制された。いかに昭和40年代であったと言っても中学校で坊主頭を強制していたところは市内でも2割ほどしかなかった。ましてや私が行くことになっていた青園中学校はそのような指定は無かった。強いて言

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せんせいさようなら みなさんさようなら ~ 塾通いの思い出       1968~1976 第1章

せんせいさようなら みなさんさようなら ~ 塾通いの思い出       1968~1976 第1章

その1
私の愛読する著作の中に以下の一説がある。「先生のことはみんな嫌いで震え上がっていた。学校に通う時分は、先生は怖いに決まっていたんだ。でも先生を懐かしく思い出すと、その恩義というのは大人になってから分かるものなんだ。その先生の生徒を思う気持ちが本当だったらね。」(執行草舟氏『現代の考察』PHP 66頁より引用)

冨丘先生。いきなりで恐縮だが、彼はおそらく私のことをそれほど好いてはいなかった

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