見出し画像

せんせいさようなら みなさんさようなら ~ 塾通いの思い出       1968~1976 最終章

その12
高校生時代

 我々は晴れて高校生になった。東高に受かった3名の男子と女子1名、北高に受かった女子2名に加えて、4月から新たに入塾してきたやはり東高の女子2名の計7名で高校時代の塾通いがスタートした。当然大学受験を意識しての再スタートだったが、大半の生徒は塾を卒業し去っていった。そして、ここまで書いてきたような小中時代と塾生活の空気は一変した。まず先生の態度が変わった。どのように変わったかと言えば、穏やかで、刺すような厳しさは消えて、我々をある種大人扱いするようになったのである。そのことへの戸惑いとともに、私は正直やや気が緩んでしまった。なぜ先生は我々を急に大人扱いするのか。高校の勉強、大学進学のための学習に対する先生の指導の限界なのか… 様々な憶測が私の中に渦巻いた。違和感があった。
 そして塾では基本的に英語の授業だけが続いた。問題集を指定され、多くは長文読解と新たな文法の習得という授業スタイルであった。毎回輪読をしながら穏やかに進んだ。数学は先生が懇意にされていた高校の先生の個人指導に通った。これは東高の男子3人のみであった。しかしそこでも私は良い生徒にはなれず、だらだらとした学びが続いて一向に成績は伸びなかった。結果的に私は1年足らずでこの数学塾には行かなくなってしまった。東高に入ってからの成績は正直人に胸張って言えるような類のものではない。大学入試の模試では卒業まで結局一度も名前が張り出されることもなく(当時、成績上位者は順番に名前と点数が廊下に張り出されていた)悉くD判定以下であった。このままでは現役合格は難しいなと感じていた。そうかと言って浪人を決心するほどの気概も覚悟も無かった。
 このような感じで高校3年間は思春期独特の雑念と共にふわふわ生きてしまったのである。その間も塾の授業は大きな変化もなく淡々と進められた。週に一回夕方から二時間くらいの授業であり、先生は以前のように声を荒げることも無く、模試の成績に細かく注意を与えることも無い。ただ以前の我々のように小学生、中学生への叱咤は相変わらず庭先で続いており、たまに玄関で塾生たちと先生とのやり取りが聞こえてくる時は、懐かしく「やってるな」と微笑ましく、私たちのあの頃を思い出していた。

 また先生の新しい奥さんになられる方の話題が出てきたのもこのころであった。塾生の親の一人が小さな子供たちを先生ひとりだけで育てるのは大変であると、渋る先生を説得しお世話したようである。確か看護師の女性であったと記憶している。彼女はそののちまで先生の良き伴侶として子育てと先生の支えになられたようであった。勝手ながら別れた奥さんのことが時折私の頭を過る。その後どうされたのであろう。良し悪しではなく、先生の人生もやはり紆余曲折であったのだなと感慨深く思いつつ、また先生の穏やかな生活を生意気にも願わないではいられなかった。このころから先生の体調は少しずつ安定してきたように思う。

 これより少し前になるが先生は自動車の免許を取った。ちょうど我々の受験の前後であったような気がする。今では当たり前になったが、自動運転すなわちオートマ車のちょうど出始めであった。当時の私は車にさほど興味はなかったが、足の悪い先生がノークラッチの車を買うという情報を他の塾生から聞いて「へー」と思ったのである。先生がいつ自動車学校に通っていたか覚えていないが、納車の日ははっきりと覚えている。届いたのはホンダライフという車種であった。当時の軽自動車の代表格で個人的にはホンダZの方が好きではあったが、先生は実用性を考えて4ドアのライフを新車で購入したようであった。何回か助手席に乗せて頂いた記憶があるが、先生の運転はとても器用でスムーズであったし、このことで先生の活動範囲も相当広がったであろう。先生の自宅の狭い前庭にちょこんと納まるかわいらしい車はお似合いであった。我々には何とも喜ばしい出来事であった。

 そして、先生の穏やかさや落ち着きと並行して、我々が高校3年の頃には仲間も一人去り、二人去り、最後まで塾生として残ったのは私と、先ほど登場した入試が思ったほどうまくいかず、入試直後は布団を被ってふて寝していた信ちゃんと、小学生の時からずっと一緒だった東高の女子一人、北高の女子一人であった。最後はこの4人と先生だけとなった。そして大学受験の時期となった。先ほども書いたが、私の成績は全く伸びず停滞し、ひとえに勉学のさぼり、言い訳をすれば受験校での競争の中で何をすべきかを見出せず藻掻くにもがいた結果であった。
 当時は友人たちの情報で、判で押したように旺文社のラジオ講座、進研ゼミの通信添削をやってみたり、それ以外にZ会や代々木ゼミ等の有名予備校の参考書や問題集、教科書をまるで収集家のように買い漁った。結局は長続きせず、どれが良いのかわからないまま親から搾り取ったお金をどぶに捨てるはめになった。日々試行錯誤の連続で何も身に着かなかった。これは今思い出しても、親に申し訳なく不甲斐ない自分を恥じいる。ただしこのような具体的な勉強方法もそうであるが、それよりむしろそういうときの心の持ち様を、焦る気持ちをどう乗り越えたらよいのかを、冨丘先生にはご教示いただきたかった。これだけが心残りである。ただそれは言っても詮無きことである。敢えて正直な気持ちをぶつけもしなかったし、何より過分な甘えた望みだったかもしれない。誰のせいでもない、私自身で答えを見つける事であり、それが私の不徳の致すところなのである。

その13(最終回)

 大学受験シーズンに入り既に塾通いも散発になり、ほとんど自宅に籠る日々が続いていた。そして、先生の顔を見ることも声を聞くことも少なくなった。案の定、私は希望の国立大学に不合格であった。全く歯が立たなかった。当時は一期校と二期校という日程をずらして国立大学の一斉入試が二回行われていたのであるが、その両方ともに見事に落ちた。3年前の高校受験の時とは全く違う状況なのに、自信など全くないのに、安っぽいプライドから滑り留めになるような私学は一つも受けなかった。そして晴れて浪人生活の始まりである。少し伸びかけた髪を散切りにして覚悟を決めた。信ちゃんは自身の希望の国立大学に見事、現役合格し北海道を離れることになった。高校入試の直後の彼の心境を思うとまさにリベンジしたわけであった。女子は二名とも浪人することになった。北海道外の有名女子大を目指すようであった。私は札幌の予備校で浪人生活を始めることに決めていた。

 そして大学入試の発表が終わってから数日後に先生から4人の門出を祝いたいとお食事のお誘いがあった。いよいよ塾生として先生とお会いする最後の時となった。場所は当時、A市を代表するシティホテルであったニュー北海ホテルのレストラン「ナナカマド」であった。先生は先に来て我々をロビーで待っていらっしゃった。ベージュのトレンチコートにチェックのマフラー姿、スーツにネクタイという出で立ちで、いつものような笑顔で我々4人を迎えてくださった。食事はレストランでのサーロインステーキのフルコースであった。先生が奮発して我々にご馳走してくれたことはよく分かっていた。嬉しさと同時に先生の生活ぶりをずっと見続けてきた身としては無理をさせているといういつもの後ろめたさがあった。先生の精一杯のはなむけに目頭が熱くなった。そして皆でこれまでの他愛もない思い出話に花を咲かせた。

 デザートも食べ終え、いよいよお別れの時を迎えるのだなとふと思った。今日この瞬間が小学校4年以来続いた塾生最後の時であり、またこれが先生とする最初で最後の晩餐となった。食事の後、別れ際に先生のほうから我々一人一人と握手をしてくれた。その時急に私の顔を見ながら「三平、髪切ったんだな。あんまり似合わないな」と一言だけ言って笑った。
特に大げさな別れの儀式もなく、いつものように我々に背を向けてタクシーに乗り込んだ先生に手を振って別れた。我々はそのまましばらく、タクシーの去るのを黙って見つめながらその場に立ち続けていた。

さいごに…

 今でもたまに塾の夢を見ることがある。年に数回ある。決まってこの高校時代の授業を受けているものである。中学までのあの怯えながらも熱く通っていた密度の濃かった印象的な時期ではなく、なぜか淡々と物静かな先生がいる高校時代のやや緩い感じの空間を思い出す夢なのである。それがいつも決まって遅刻しそうで慌てて走っていく夢なのである。

 塾に通うのを辞めたいと思ったことはない。もちろん厳しい塾だったので、特に生活全般に至るまでルールに縛られていたので不自由さは常に感じていた。普通の生徒のように部活もしてみたかったし遊びたいなと思っていた。でも、一度も本気で辞めたいと思ったことはなかった。不思議だが、辞める術を知らなかった。と言って惰性ではないと思う。ただ通い続けるものだと愚直に思い込んでいた。先生の求心力?人望? そう思えるほど強かったのであろうか。ただ不思議と高校卒業まで誰よりも長く通い続けてしまったのである。

 先生は風の便りで、20年ほど前に亡くなられたようである。私も還暦を過ぎてこの文章を書いているが、いま先生に思うことは一言では言い表せない。単なる感謝とかセンチメンタルな思い出とかそのようなものとも違う。それは「滋味」というものに近いような気がする。豊かで深くて味わい深いものというか。そして「恩義」というものが、わが師の恩がこの年齢になって初めてわかったような気がする。冒頭にも書いたが今でも先生はこの私のことを好きであったとは思えない。好みの生徒ではなかったと思う。

 最後にニュー北海ホテルで分かれて以来、正直一度もお会いしていない。大学時代に電話で少し話した覚えもあるがそれも既に40年以上前のことであり、会話の中身も思い出せない。ただ先生の予言通り現在の私は大学教員として学生の前に立っている。具体的ではないが、あの当時の先生の立ち居振る舞いや想いに何か影響されているように感じることはある。強いて言えば学生への愛情というか、パッションというか、そういうものだけは私の中に常にある。学生は迷惑かもしれないが、自身を赤裸々にさらけ出すことも先生の受け売りかもしれない。もちろん意識したことは一度も無いが…

今でも時折記憶の中から蘇る、塾生たちの声
「せんせいさようなら みなさんさようなら」
よかった 今日はビンタされずに済んだ!

(了)

あとがき

富岡先生には本当にお世話になりました
この稚拙な手記はあなたへの弔いの詩です
どうぞ安らかに我々を見守ってください

ありがとうございました

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?