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せんせいさようなら みなさんさようなら ~ 塾通いの思い出       1968~1976 第5章

その10
 この頃の私のことを少し話すと、停滞していた成績が中3に入った途端、理由はわからないが模試でいきなり10番以内となった。これには私が一番驚いた。奇跡であった。母親は無邪気に喜んでいた。この成績を維持できれば東高も夢ではないと思い始めた。この頃から先生の私への接し方も少しだけ変化してきたように思う。時を同じくして坊主頭を伸ばしてよいというお触れが出た。つまり髪を伸ばすことが解禁となった。2年生の秋口には、短ければ坊主頭でなくても良い、と先生から言われた。私をはじめ塾生男子は小躍りし、伸びかけた髪が分け目を付けられる頃には思い切ってレザーカットにしてきた。それを見た先生は、ある日「解禁したとたんにみんなすぐに伸ばし始めるんだな‥」と咎めるというよりも残念だという表情をされた。こんな先生のがっかりした表情一つが、いつも私の心の曇りに繋がった。先生への反発ではなく、素直に「先生ごめんね」という感情に近かった。この時期を境に先生は我々に対して以前のように叱ることも少なくなり、もっぱら受験対策にシフトしてきたので、試験の点数でビンタされるということも無くなってきた。その変化は我々にとっては確かに救われるし、うれしいことに違いなかった。一方で、そろそろ卒業卒塾というカウントダウンの響きとともに、小学4年の後半から通い始めて5年が過ぎたことに、ちょっとだけ感傷的な気持ちになっていた。年齢的にも我々は思春期に入っていた。
 
 いよいよ3年生の後半、受験は大詰めの時期になってきた。私は試験の成績は何とか維持できており、あらためて先生との最終面談が始まった。この間の成績から先生は躊躇わずに「三平は東だな…」そう言ってくれた。正直やっと先生に認められたという感慨が胸にあふれた。その時も前の面談と同じことを繰り返された。「やっぱり、お前は…先生向きなんだよな…どっかな」。さっぱりわからなかった。

 年が明けて、ついに来るべき時が来た。高校受験である。私は私立は受けずに(滑り止め無しということ)東高一本の受験である。今思えば大胆だが当時の塾生の多くは高校受験に関してはそうしていた。落ちるくらいなら受けないという覚悟があった。まさに背水の陣である。併願をするということは自信の無さの表れのように思われていた。ここで冨丘塾の恒例話を一つ追加する。 
 高校受験の2日間に亘り、先生による家庭訪問が行われた。毎年、先生は高校受験の試験日の夜には中3の塾生の元を必ず訪問して回るのである。公立高校の試験日の夕刊に試験問題と模範解答が必ず掲載された。我々は試験が終わると自身の回答を書き込んだ問題用紙を持って、急いで塾に寄り先生に渡す。そのあと夕方から先生が模範解答を基に全員の採点を行う。そして、その採点内容を告げに各家庭を順番に訪れるのである。初日は国語、数学、社会の3科目、二日目は理科と英語であった。我々は家で緊張しながら先生の訪問を待つことになる。
 一日目の夜7時ころ、直前の訪問宅から電話が入り、先生が今から伺う旨伝えられた。そして私の自宅が国鉄アパートの二階であったので階下まで先生を迎えに降りた。先生は足が悪いので肩をお貸しして階段を上らなければいけない。3月上旬の北国は雪でかなり足元の悪い時期である。その中で一軒一軒告げて回る苦労を思うとその熱心さに頭の下がる思いであった。そして有難かった。先生が階下に現れ開口一番「三平は今日の平均が80点を超えているからよかったよ」と言われホッと胸をなでおろした。そのまま自宅に上がっていただき、細かい内容を伝えられ、明日の二科目を頑張るように言われた。そして二日目も無事に終了し前日同様夜に先生が来られて「この分なら大丈夫だろう」と合格の可能性を告げられた。信頼する先生の言葉だからここで合格を確信したのは間違いない。その時のことはなぜか心に残っており、テレビから小柳ルミ子が「春のおとずれ」を歌う姿が流れていたのを今でもぼんやりと記憶している。

https://www.youtube.com/watch?v=tPwNjLmSlYk

 先生を送って階段を下りているとき、同じく東高を受験した塾生の一人で昔から一緒だった信ちゃんが「どうも合格点に達していないようだ」と、苦悩の表情をしておられた。さすがに自分のことは嬉しかったが、信ちゃんは布団を被って出てこなかった、という。幼馴染であり冨丘塾を紹介してくれた彼のことは他人事とは思えなかった。やはり塾生ひとりひとり皆戦友であったし、小学校以来ずっと泣き笑いした者たちばかりであったから、ここに来て一人も欠けて欲しくは無かった。


その11

 そして、いよいよ合格発表当日、信ちゃんと私とで3月半ばのザクザクと融けかかった雪道を歩いて高校まで発表を見に行った。それまで緊張と落ち着きのなかった信ちゃんであったが、着くやいなや掲示板の前で「やったぁ!」と大声で叫んだ。もちろん私の名前もあったので嬉しかったのだが、傍らで涙声にむせぶ彼の様子が眩しかった。おそらくこの時の喜びは私より彼の方が数段勝っていたと思う。それと同じ経験を、私が二浪の末に大学合格した時、味わうことになるがそれはまだずっと先のお話。
 合格発表を見終えてから先生に報告するために二人で塾に向かった。皆既に集まってきていて、お互いの健闘を喜び合えた。この日のためにと思っていたわけではないが、今までの出来事が全てこの場に収斂されたような味わったことのない喜びを感じていた。しみじみとした感動という感じであった。先生はただ微笑みながら、いつものように煙草をくわえて皆の様子を見ていた。それは満足げにも見えた。皆の歓声が続く中、この時一瞬私の頭に「卒塾」という言葉が過った。解放とは全く別の感慨というか、たまらなさが込み上げてきた。ただそれも束の間でまた皆の歓びの輪に包まれていった。先生から「おめでとう、今日までお疲れ様だった!」の言葉をもらい、皆は帰途についた。
 その後卒塾になるのだが実はそのあたりの記憶が殆ど無い。最後に塾生皆が集まって式のようなものがあったのかどうかも、感涙にむせぶ女子がいたのかもまったく思い出せない。もしかしたらその日を境にあっさりと塾を巣立ったのかもしれない。保護者が集まって先生にお礼を持って行ったことだけは記憶しているが、それは大人の儀式だから関知していなかったので、やっぱりこのまま塾での高校受験物語は終了してしまったのかな‥と思う。ただし私にはまだ続きがある。高校に入ってからもこの塾通いが続いたのである。

 この受験時期より遡ること1年くらい前になるが、先生は離婚された。そして二人のお子さんは先生が引き取った。奥さんは子供心にも細面の小柄な細身のきれいな方だった。奥さんは我々塾生に対しても子供扱いをせず、丁寧な言葉づかいで優しく接してくれた。ただいつもどことなく寂しそうであった。だがこの日を境に先生の元を、そして我々の元を黙って去っていった。先生は良く我々の前で悪ぶって、奥さんのことを「うちの女中は‥」と言っていた。また授業中に隣の居間から先生が彼女に向かって放つ「怒声」が聴こえたこともあった。子供のことが理由のような気がしていた。実際我々は2人の間に何が起きていたのか知る由もないし、そのことを話題にする塾生もいなかった。ただ何となくこの大人の不協和音の空気は皆も察していたかもしれない。彼女が去っていったというべきなのか、先生がそう告げてしまったからなのか…いまとなっては理由はわからないが。


 ただその日、奥さんが出て行かれたまさにその日の授業が終わるころであった。突然我々の方を向いて黙って全員の顔を見渡した。そして、よほど哀しかったのであろう、情けなかったのであろう、急に先生は泣き崩れた。自分を責めるようにしばらくうつむいて声を殺して泣いていた。そして、我々に「こんなことになって面目ない…」そう涙声で話された。その真意はわからないが、我々はその言葉にどう反応して良いかわからず、ただ黙りこくっていた。私は大人の世界、ましてや男女、夫婦の機微などこの時期にはわかりようもなく、子供心にただ先生のその姿を不憫と思っていた。

 数日後、この時のことを塾生の中のある母親が批判していたことをたまたま耳にした。「受験が近い生徒の前で個人的な事で泣いて謝るなんて何なんだろうね‼ 本当に大人げない‼」そう言っていたそうである。私はその母親を軽蔑した。複雑な感情が入り乱れ、同時にぐっと込み上げてきて「そうじゃない…先生はそんなんじゃない…」と整理のつかない気持ちを心の中で反芻していた。先生は誰の前でもなく、出来の悪いこの我々に対して感情を吐露した。たまたま我々の学年の授業日に当たり、その時間帯であったことが偶然であったとしても、あまりにも象徴的で、いまだに我々と先生との特別な想い出として深く心に残っている。


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