見出し画像

絵本『フィンドゥスが小さかったころ』を読んでは独り言

先日

ある患者さんから相談を受けた

その詳細は省くが
簡単に言うと
心療内科の先生が
話を全くきいてくれない
ということだと理解した

患者さんが話しかける

それに先生も答える

それはそうなのだが
患者さんは話をきいてもらっている感じがしない

どうやら相談を聴いていると
先生の態度や姿勢に納得がいっていなかったり
患者さんの意見が全く受け取られていないと
思ってしまうような会話だったりが
影響していそうだなと思った

話を聴いてもらっている

その感覚はどこからくるのだろうか

話者が自分自身の存在を
認めてもらえていると
認識することからくるのだろうか

果たして…

そんなことを思い出しながら

今日もまた

読んだんだか読んでいないんだか
積んだんだか積んでいないんだか
といった本達の中から一冊紹介し
心の琴線に触れた一節を取り上げ
ゆるりと書き記していきたい

今回はこちらの本を読んでは独り言

図書館で借りてきた絵本である

毎週図書館に行き
絵本を10~15冊は借りてくる

先日音声配信した際に
改めて数字を認識し
大体の計算ではあるが
1日1冊絵本を読んでいるのだなぁと
しみじみ思うのであった

今回の絵本も
直感的に選んだのだが
示唆深い内容に
色々と考えが巡る

といっても

私の考える範囲といったら
狭いし浅はかではあるのだが

まぁそんなもんかとも思うのだ

さてさて

いつものように
引用する必要があるんだかないんだか
引用の定義を考えては
自己ツッコミを入れつつ
noteの引用機能を用いて
引用させていただきたい

あるところにペットソンさんというおじさんがいました。ペットソンさんはのどかな村の小さな家で、しあわせにくらしていました。でもひとつだけ、こまったことがありました。
ペットソンさんはたまに、さびしくなるのです。
近所の人とは話をしますが、みんなそういつもおしゃべりをするひまはありません。
ニワトリといるのは楽しいのですが、話し相手にはなりません。
話しかけようとしたとたん、ミミズを追いかけていってしまうのですから。
夜、ニワトリが眠ってしまい、しんとした小さな家にもどると、ペットソンさんはひとりぼっちになったような気分です。楽しいことなんか、もうなにも起こらない気がするのです。

スヴェン・ノードクヴィスト ひだにれいこ. フィンドゥスが小さかったころ. WORLD LIBRARY, 2015,3p

寂しくなるのは
生きている心地が
しないからなのかもしれない

引用させていただいた箇所を読み
そう感じた次第である

楽しいことが起きない

そんな絶望にも似た感覚を
持っているペットソンさん

楽しさとは何だろうか

新しい何かに触れたときだろうか
変化を自覚したときだろうか

この絵本では
引用箇所の後に
フィンドゥスという子猫が登場し
子猫との毎日がペットソンさんを
明るく生き生きとしていく

新しい何かとの出会いや
変化を自覚できるか否かは
その人の自覚次第という気もするが
寂しさに囚われてしまうと
人間は誰でもこうなるのだろう
とも感じてしまう

他ならぬ自分もそうなってしまうだろうと…

何も変わり映えのしない毎日が
心を蝕むのかもしれない

ふと冒頭の患者さんの相談とも
繋がった気がした

変化を自覚できるか否かは
変化を認識できるか否かが
生きている実感にも繋がるのかもしれない

そんな世迷言が頭に浮かんだのだった

この記事が参加している募集

#読書感想文

188,210件

こんなポンコツな私ですが、もしよろしければサポートいただけると至極感激でございます😊 今後、さまざまなコンテンツを発信していきたいと思っておりますので、何卒よろしくお願いいたします🥺