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『プシコ ナウティカ』を読んでは独り言・其の二

どうすれば治りますか?

患者さんの願いを聴く度に
答えに窮することがある

治るとは何だろうか

治った先に期待する状態も
その人それぞれだったりする

極端な例で言えば
誰がどう見ても
年齢を重ねた結果としての
症状だったりするのだが
それを「治して欲しい」と願うのだ

年齢を逆回しにしろということだろうか

穿った見方をしてしまう私は
そんなことを思い浮かべてしまうが
もちろん患者さんが望んでいるのは
「その症状を取り去って欲しい」
ということだと理解して話を聴き続ける

しかしどこかで
「それは仕方がないことなのでは?」
と思ってしまう自分がいる

生きている以上
誰もが歳を重ねるし
歳を重ねれば体のあちこちが変化する

それを止めることはできない

生きている以上誰にも
それを止めることはできない

日々の生活に気をつけることで
変化の幅を留めることはできるかもしれない

食事に気をつけ
睡眠に気を配り
運動を心がける

そうした日々の営みが
変化の幅を遅らせることに
繋がるかもしれないし
繋がらないかもしれない

生きるとは
全てがうまくいくことでもない

そんなことを思い浮かべながら

今日もまた

読んだんだか読んでいないんだか
積んだんだか積んでいないんだか
といった本達の中から一冊紹介し
心の琴線に触れた一節を取り上げ
ゆるりと書き記していきたい

今回はこちらの本を読んでは独り言

一昨日に引き続き二度目の
本を読んでは独り言note

まだ16頁程しか
読み進めていないが
書かれている内容に
興味関心をくすぐられ続けている

こうした本との出会いがあるから
読書はやめられないのだろう

そして本を購入することも
やめられないのだろう

さてさて

そんな本書より

いつものように
引用する必要があるんだかないんだか
本来の引用の意義を考えては
自己ツッコミを入れつつ
noteの引用機能を用いて
引用させていただきたい

では、精神医療の人類学はどこに立脚すべきだろうか。それは「生(vita)」であると言うことにしよう。ただそこにはいくつかの含意と保留がある。まず、イタリアの精神医療そのものが、精神病院を廃絶することで、病気を治すという医療の倫理から、生きることそのものに定位するという方向性へと転移したことがここには関わっている。病院から地域へ、というのは、単に医療の場が病院の内から外へ移動したということではなく、病むことも含めて人が生きるということそのものを中心に据えたということである。精神病院から病者を外に出すにとどまらず、精神病院そのものをなくすということにはそういう願意がある。後で詳しく見るが、イタリアにおける精神病院の廃絶が、他の国でも見られた「脱病院化」と一線を画しているのはそういった部分である。

松嶋健. プシコ ナウティカ イタリア精神医療の人類学. 世界思想社, 2014, 14p

治すという医療の倫理から
生きることそのものへの転移

患者さんの「治す」という言葉に
心がもやついていた私の心に
一筋の光が灯った瞬間であった

しかし

これを医療従事者が患者に求めてしまうのも
それはそれで横暴なことだとも思う

どうしたら

生きることそのものに
定位するという方向性へと
転移できるのだろうか

病むことは生きる以上仕方のないことで
それも含めてお互いがお互いの自由を
相互に承認し合うという社会が
実現すればいいなぁと心から思うが

それが実現することは
果たして良いことなのか
と自問したりもする

それは単なる
私のエゴではないのかと

そんなことを思いつつ
引き続き「生」について
考えていきたい

様々な本を横断しながら

私の自由研究の旅は続くのだ

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