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「忘れる能力」がこれからめっちゃ重要になるらしい

人間って本来はある程度のことを忘れる生き物だと思う。
いや、人間だけではない。
リスが埋めた餌をどこに埋めたか忘れるように、動物というものは忘れるのが普通なのかもしれない。

でも、文明を築き上げて、その文明の中で生きる私たちは、忘れる能力よりも記憶する能力を大切にしている。

重要な情報を記憶して、必要な時に引き出せる能力の高さは知識と呼ばれて、知能の高さを量る指標だ。

知識の多さ。
知識を覚える早さ。
そういった自分自身に記憶する能力を高めるために、早ければ0歳からオトナによって教育されていく。

一方で自分以外に知識を記録する能力もある。
これは文章にしたり、図や絵にしたり、音声にしたり、映像にしたり、概念化したりなどなど。
自分が覚えていなくても知識を必要な時に使えるようにしたり、自分が直接関わらなくても他人に伝えられたりする。

私はこの自分以外に記録する能力こそが、私たちの文明を発展させ、私たちを文明人たらしめる能力なのではないかと思う。
なぜ記録するのか?と立ち返ると、忘れるから(自分の頭では限界だから)記録するのだろう。
記録する能力の前提には「忘れる」があるのだ。

そして、忘れることで発揮される能力こそが、これからの時代でより重要視されていくと感じている。
そんな話をこの記事にまとめてみる。



記憶するより忘れよう

また私が馬鹿なことを言い始めたと思うかもしれない。

「記憶するよりも忘れよう」なんて話は到底、多くの親をはじめ、オトナには受け容れがたいだろう。

なんせ、自分自身に記憶する能力は知能、つまりは頭の賢さの代名詞なのだから。

例えば、小学校入学前の子どもが漢字を1000文字すでに覚えていると聞けば、多くの人は「この子は天才だ!」なんて反応をするのではないだろうか。

そういった知識を覚える量や早さはとても重要だとされているし、そういった能力が私たちが生きるこの社会で役に立つと考えられている。

逆に、覚えられない人やすぐに忘れる人は一般的に馬鹿だとされる。

だけど、本当にそうだろうか?

多くのことをより早く記憶して、すぐに引き出せる能力は間違いなく素晴らしい。
でも、だからといって、そうでない人が能力が低いとは限らないし、むしろ、すぐに忘れる人のほうが変化を生み出したり実行スピードが速かったり、新しい知識や技術、考え、思想を取り入れられたりする。


パソコンで考えてみるとわかりやすい。
PCに情報を保存しすぎるとメモリが不足する。
ネットにアクセスすれば得られるような情報であれば、わざわざ保存しなくてもいいだろう。
さらにはクラウドサーバへと移してしまえば、自分のパソコンの記憶容量を食わなくてすむ。

記憶容量が不足していれば新しい、すぐに引き出したいデータを保存できなくなる。
まず容量を空けるためにデータを削除するところから始めないとダメだ。

人間が記憶できるボリュームなんてパソコンに比べればかなり限られている。
貴重な脳みその記憶領域を、いつでもどこでも誰でもアクセスできるような知識に使用しているのは、私は勿体無いと思うのだ。


忘れることの功罪

「忘れる」には、一般的にはネガティヴな印象が強い。

宿題を忘れると怒られるし、
授業に必須の持ち物を忘れると困るし、
授業で聞いた重要語句を忘れるとテストの得点は低くなるし、
恋人の誕生日を忘れると怒られる。

でも、忘れることによって得られるものもある。


忘れるから記録する

自分がすぐに忘れると認知している人や、人間の記憶力は大したことがないと思っている人は、記録する能力が高い。

例えば、ふと思いついたことや今の自分の考えを文章にしておく。
文章を書けば書くほどに言語化能力に長けていく。
図にしたりしてまとめる力はグラフィックレコードなんて呼ばれて、重宝されていたりする。

記憶は自分しかアクセスできないが、記録することで自分以外の人もその情報にアクセスできるようになる。
これも非常に


忘れるからすぐやる

これは私の話なのだが、私はすぐ忘れるので、回された仕事(タスク)をとにかくすぐにやるようにしている。

「仕事早いですね」なんて言われたりするが、そうではない。
ただ、すぐにやらないと忘れてしまうから回ってきた時にやっているだけなのだ。

なので、すぐにやらなかった仕事は忘却の彼方にあるので、指摘されるまで放置されてしまう。

だから、そうならないように忘れる前にすぐやる。
これまで会った「仕事が早い人」はそういう人が多かった。


新しいものを取り入れる

古いものを忘れる能力が高いと、新しいものを取り入れやすくなる。
新しいものが常に優れているわけではないが、自動車が普及しているのに、馬車を使い続けているようなことは結構ある。
電子メールが当たり前になって久しいが、未だにFAXを使っている人がいたりする。
判子も忘れられない人がたくさんいることで合理性が損なわれていたりする。

なにもかもが合理的であることが良いわけではないが、これは合理化してもいいんじゃね?って思うことは多々あって、そういったものが進まない理由に、古いものを忘れられないことが大きい。


人間の記憶力には限界がある。
だから、そのリスクヘッジをしたり、忘れることで頭の中の容量を空けてしまったり、囚われを無くすことで得られるものは大きいように思う。


忘れると輝く忘れてはいけないもの

忘れる能力がこれからめっちゃ重要になるのは、これまでに書いた以上に、これから書くことが理由だと思う。

それは文脈を読み取り、エッセンスを抽出して、これまでにない組み合わせを生み出したりなど、物事を変異させる能力が忘れる力によって担保されるからだ。

これから必要なのは誰もが知っていることではなく、それらを応用して自分にしか思いつかないことを思いついたり、感じたことを表現したりする知性だと思う。

なんでもかんでも(とまでは言わないが)自分の頭のなかに記憶して知識を増やす努力ばかりをしていると、正解ばかりを知っているだけになってしまう。

それだけでは、感じる価値は増えないし、深まらない。
新しい変化も生み出せない。
昨日、ちょうどこんな良い話をいただいた。

これは京都のとある日本料理屋にかけてあった掛軸だ。

この掛軸を見て何を感じるか?
掛軸の意味はわからなくても、まずは自分が何を感じるのかが大切だと、その料理屋の主人は話してくれた。

この掛軸だけではなく、このお店にたどり着くまでの道、景色。
お店の門や入り口、店内の装飾品や香り。
そして、出される料理。
食材。
器。

すべてがストーリーになっている。
ひとつひとつの意味や正解がわからなくても、その文脈を読み取ることで料理の楽しみが深まっていくのだ。

「食べた料理が美味しい」だけではないのだ。

お店に来るところから食べ終わるまでの流れのなかで、感じ取れるものは人それぞれ。
掛軸もスマホで調べれば、どういったものなのか正解はすぐにわかるかもしれない。
だけど、その正解を知ったからなんだというのか。
それ以上に自分がどんなことを感じるのかが大切だとその主人は話してくれた。

当然、日本文化を勉強することは大切だけど、知識を増やすだけではなく、体験を大切にしてほしい。

そんなことを伝えてくれた。


正解を忘れて、答えのない世界に身を置こう

正解のある世界は世の中の一面でしかなく、どちらかというと狭い世界だ。
固執してしまうぐらいなら、忘れてしまったほうがいい。

例えば、文章を書くにしても、誰もが知っていることを書いても面白くはない。

例えば、「月」をテーマに作文を書いたとして、
「月とは、直径3474kmの地球の衛星だ。夜になると一番大きく明るく見える星で、、、、」
みたいな、誰もが知っているようなことやググればすぐにわかることを書いても面白くはないし、わざわざ自分が書く意味がない。

それよりも
「あれは月がひときわ明るく見える夜だった。私と彼女はいつもの帰り道を手をつないで歩いていた。あたりは田んぼで、カエルの鳴き声が響いている。暗い田んぼの奥に目をやると、なにか大きな黒い塊が動いたように見えた。見間違いだろうか、、、、、」
みたいな、自分にしか書けない話のほうが面白いわけだ。


人は忘れる。
忘れるから記録する。
でも、忘れても残っているものがある。
それをどう活かしていくかがこれからとても大事になると思う。

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