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キリスト教あれこれ

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キリスト教に関する色んな私の考えをまとめたものです。
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#イエス・キリスト

主は「沈黙」を通して語られる

主は「沈黙」を通して語られる

私はこれまで何度も主の言葉に反発してきた。
「あなたは神の言葉を聴くと、反抗してくる」と指摘されたこともあるほどだ。
そんな日々を過ごしていても、私は背教者とはなれなかった。世に戻るということは出来なかったのである。

ある日、私はキリスト像を見つめて、心の中で主に語りかけた。
「どうして、私がこんなにもあなたから離れることがあるのに、あなたは私を見捨てられないのですか?あなたが見捨ててくだされば

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破壊された人格の回復

破壊された人格の回復

今日は少し思索を巡らしてみようと思う。

考えていくテーマは破壊された人格というものだ。
学校でのいじめ、職場でのパワハラ・モラハラ、家庭内での暴力・機能不全など、様々な環境的要因で人はいとも簡単に壊れていく。

私は学校でのいじめと機能不全の家族の中で育った生育歴があり、残念ながら、精神障害を患ってしまった。
苦しい中で、我慢していったせいで人格と価値観が破壊され尽くしてしまったのだ。

破壊さ

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マリアの導き

マリアの導き

なんか本のタイトルのような表題になりましたが……。

プロテスタントの一部の方はマリア崇敬を学んで実践したことがないのに、公に批判することをしています。
私はプロテスタントの方々のマリアに対する忌避感は否定しません。ですが、だからといってカトリックの方々の信仰やマリア崇敬をみことばを用いて非難するのはおかしいと思います。

そのために、私は今回マリアの導きと題して、キリストという神を知ったことを書

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𝕏 (旧Twitter)での「エアリプ」について

𝕏 (旧Twitter)での「エアリプ」について

noteのアプリの中では、全くこういったことはなく、安心してnoteでは投稿できるのですが…

私は2年ほど前、まだ𝕏 がTwitterだった時から𝕏 (旧Twitter)を始めています。
それで、𝕏 のキリスト者たちのポストを見た時に、年を追うごとに、この「エアリプ」と呼ばれることをするキリスト者たちが多くなってきていると感じるようになりました。

noteでは、なかなか縁がない言葉だと思

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「服従」に対するメモ書き

「服従」に対するメモ書き

最近、SNSで活動をしていて、「服従」とは何だろう?と考える機会があります。

私はSNS上で、教会や上長の悪口を匿名で書いている人たちを見かけて、少し悲しい気持ちになる時はあります。
私は教会では牧師や司祭(以下、指導者と呼称する)が「キリストにあって福音を語っているならば」、その人に従うべきだと教えられてきました。

これは、感情論ではなく、指導者から福音を語られることによって、その人がキリス

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献金の言説に対する疑問

献金の言説に対する疑問

色んな人が時々語られていますが、

「献金をすればお金は返ってくるが、献金しないと貧しくなる」

という言説に常々疑問を持っています。

地上で祝福されるのは良いことだと思います。

ですが、私たちキリスト者が献金した時に、求めるべきはキリストの愛に満ちた恵みではないでしょうか?

それは決して、お金で返ってくるものだけではないと思います。

これは私の体験談に過ぎませんが、私は献金をする度に、教

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神の家族と礼拝

神の家族と礼拝

神の家族とは

まず、礼拝を共にすること。
その中での説教と説教の実践である司牧を受け、腹を割って話せる関係を司牧者と築くこと。

特に礼拝では、リアルタイムで顔を合わせて礼拝を捧げる。

そうすると、礼拝者たちは個々の霊が結び合わされ、神の愛の下で一致する。

これによって、人間の好き嫌いを超越した愛の関係も作り上げられる。

それが、神の家族の関係である。

人に躓く

対して、人に躓く(この

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信仰の行き詰まり

信仰の行き詰まり

皆さんは信仰に行き詰まったことはないだろうか?
イエスを主と信じているのに苦しくて仕方がない。祈ることも出来ない状態が続く。
今の信仰で乗り越えることの出来ないことに出遭ったことはないだろうか?

私がそういったものに出会ったのはつい最近である。

事の経緯は昨年に遡る。私たちの教会は牧師の指導の下でロザリオを祈り始めた。
それまでは、私たちの教会はプロテスタントの単立教会でマリア崇敬を実践してい

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ダビデとソロモンの晩年

ダビデとソロモンの晩年

詩篇51篇が今日の通読箇所であった。
ダビデの悔いた心を綴った祈りに「アーメン」と心の中で思いながら、ふと、気になったのは、ダビデの晩年であった。

ダビデの晩年のことを私はあまり気に留めていなかった。むしろ、知恵の人であったのに、神に背いたソロモンの晩年の方が印象深かった。

なぜ、気になったのか。
それは、ダビデの晩年は、私にとっては「幸せそうじゃない」晩年であった。
そう思った箇所を挙げたい

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ユディト記のユディトと賜物

ユディト記のユディトと賜物

少し興味深いお話を拝読したので、私がユディト記を読んで、理解したことを書きたいと思います。

ユディトという女性

ユディトとはイスラエルの民(イスラエルの十二部族の一人、シメオンの子孫)の信仰深い未亡人です。
美しく、魅力的な女性だと、聖書の中では描写されています。

ユディト記ではユディトが登場する前に、イスラエルの民を襲う敵国アッシリアの将軍ホロフェルネスという人がベトリアという町を襲撃しよ

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家族を捨てるとは

家族を捨てるとは

家族を捨てるとは何だろう?とふと、考えました。
そのまま読み取ったら、家族の縁を切って、家族なんて私の知ったこっちゃないというような、とんでもない言葉のように思えます。

福音書では家族を捨てることについてこのようにイエス様が仰せられています。

家族や職、地位、富を捨ててキリストに従うということは、同時に狭義的な意味で献身をするという意味でもあります。
神学校に入らないと献身にならないという考え

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旧約聖書はイスラエルの民のものなのか?

旧約聖書はイスラエルの民のものなのか?

突然ですが、イザヤ書の御言葉を引用させていただきます。

これを今読んでいる方々、この御言葉をどのように捉えているでしょうか?

自分が愛されているんだと捉えていますか?

私は自分のこととして捉えています。

しかし、そう思わない方もいるようです。
イザヤ書43章4節は「イスラエルの民に向けたもの」で、私たち「異邦人でさらに未信者(不信者)」の人はイザヤ書43章3節が当てはまるのだと考えている方

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私とマリア様 -聖母と手を繋いで歩んだ道-

私とマリア様 -聖母と手を繋いで歩んだ道-

私の人生の歩みはマリア様、聖母マリアと共にありました。
幼少期に、教会に併設されているミッション系の保育施設に通っていた時、入り口に小さなマリア像と、教会の近くに大きなマリア像がありました。
どちらも、手を合わせて祈っている聖母マリアのお姿をしていました。

幼い時、物心がついていた時ですが、ふと私は入り口の小さな黒いマリア像に向かって、「マリア様、いつもありがとうございます」と祈っていました。

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「悪魔的」という考え方に対する反駁

「悪魔的」という考え方に対する反駁

最近流行りの【推しの子】という大人気アニメを見たクリスチャンがいて、そのアニメを悪魔的だと仰っていました。
そして、それに同調されている方もいました。

私自身が【推しの子】が好きであり、アニメを全話見たので、正直に言うと、どこが悪魔的かということが私には分かりませんでした。

その人が言うには、作品のテーマである「愛してるという言葉が嘘だ」ということ、他にもありますが、それが悪魔的だということで

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