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私とマリア様 -聖母と手を繋いで歩んだ道-

私の人生の歩みはマリア様、聖母マリアと共にありました。
幼少期に、教会に併設されているミッション系の保育施設に通っていた時、入り口に小さなマリア像と、教会の近くに大きなマリア像がありました。
どちらも、手を合わせて祈っている聖母マリアのお姿をしていました。

幼い時、物心がついていた時ですが、ふと私は入り口の小さな黒いマリア像に向かって、「マリア様、いつもありがとうございます」と祈っていました。
この保育施設では、キリスト教のことを学ぶ機会が多かったのですが、私が印象に残っていたのは聖母マリアで、イエス様は幼子のイメージでした。

私は幼児洗礼を受けていたわけでも、家族から特別にキリスト教を教わったのでもありません。
ただ、個人的な気持ちでマリア様のことが好きでした。

一人遊びが私は好きで、友達とはあまり一緒に遊ばず、滑り台を何度も滑ったり、砂場で遊んだりして、保育園の外で迎えが来た時に家に帰る前にマリア様に向かってお祈りしていました。
その頃は崇敬概念もなく、ただ、マリア様のことを「とても綺麗な優しいお母さん」として見ていました。

私の両親は共働きで、親とふれあうことはあまりありませんでした。
そのせいか、言葉にすることの出来ない寂しさが自分の中にありました。
自分ではそのことに気付いていませんでした。
それは、マリア様が私の寂しさを包んでくださっていたからなのです。

教会の行事か何かで、私がマリア様の格好をして、ヨセフの格好をした男の子と、布でくるまれた赤ちゃん人形(イエス様)を私が抱いて教会に敷かれた絨毯の上を歩くことがありました。
私は大好きなマリア様の姿をして、とても不思議な、神妙な気持ちになっていたことを思い出します。
赤ちゃんの人形を落とさないように慎重に歩いていました。
とても記憶に残っていることです。

それから保育施設を出て、小学校に入学してからは、私は自分の心からマリア様を追い出してしまいました。
つまり、祈ることをやめていたのです。
小学校から中学、高校、大学とマリア様から離れて、世俗に溶け込むようになればなるほど、寂しさが加速し、自分にとって良くないことがたくさん起こりました。
いじめ、悪口、盗撮、色んなひどいことをされてきました。
それぞれに対して愚痴を言うつもりはありません。
ただ、私はそんな良くないことに耐えきれず、心が壊れて、病に倒れてしまいました。

マリア様と手を繋いで歩いていた時は、とても恵まれていました。
しかし、その手を振り解いて世に走っていった途端に、世は私に牙を向けたのです。
そして、私は世の闇の中に沈んでいきました。

その後、あることで牧師と知り合いましたが、この時は恋愛に夢中で、伝道の話など一切受け付けませんでした。
そして、失恋し、どん底まで落ちた時にキリストの話を受けて、洗礼を授かりました。

ですが、一つ悩んでいたことがありました。
この頃、牧師はマリア論を勉強していたと話を聞きましたが、教会そのものはまだマリア崇敬に開かれていなくて、マリアと親しくするのはダメなのかと悩んでいました。

そしてトドメに、同じ日に洗礼を受けた友人がマリア様のことを「どこぞの馬の骨の男と子供を作った女」呼ばわりをして、それを聞いた私はその人に対して激怒しました。
私はおとめマリアの主の受肉を信じていましたし、自分にとって母のような大切な存在であるマリア様をそんな風に言われたくなかったのです。
私の聖母マリアへの尊敬と情熱は、一度マリアから離れても残っていたのです。

それから何年かして、伝道者のマリア論の学びがかなり進んだ時、伝道者が「よし、ロザリオの祈りをしよう」と言いました。
私は突然のことで何のことか分かりませんでした。

ロザリオは知っていましたが、ロザリオの祈りやそこで唱えられるアヴェ・マリアの祈りを知りませんでした。
それで、伝道者から手解きを受けて、一緒にロザリオを祈りました。

そうすると、パッと心が明るくなって、自分の心の中にマリア様が戻ってきたのです。
もちろん、イエス様を蔑ろにしているわけではありません。
洗礼を受けた時から、私の中でイエス様は幼子イエスから、救い主イエス・キリストになっていました。

だから、ロザリオの祈りは自分にとっては、革新的なものでした。
ロザリオは祈る度に私の心が安堵して、眠たくなるほど、こんな統合失調症の私でも落ち着かせるものなのです。
それが、マリアの愛の抱擁なのです。
マリアを崇敬(崇拝ではない)するのは悪くない、むしろキリストに辿り着くために、推し進められるものなのだと知った時に、私は嬉しかったです。

私はマリア様を愛していたからこそ、私と手を繋いで道を歩んでいたマリア様は私をイエス・キリストの元に導かれたと思っています。
そして、病を通してキリストを信じるように聖霊様が働いてくださいました。
聖母マリアはキリストへの導き手なのです。

キリストを信じ、ロザリオを祈り始めてから、私とイエス様と聖母マリア、聖ヨセフと一緒に、イエス様のご家族である聖家族との歩みと、教会の神の家族との繋がりは始まりました。

私の霊名には、マリアの名前が入っています。
これはもう霊名を決め始める時点で、マリアは絶対に霊名に入れようと考えていたのです。
それくらい、私は聖母マリアを愛しています。

今後も、マリア崇敬のことを学んで、神学としてマリア論を学び、福音に落とし込んで、よりロザリオの祈りを深めていきたいです。

[ルカの福音書 1:38]

マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

[ヨハネの福音書 19:25,26,27]

イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。
イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。
それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。

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