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ユディト記のユディトと賜物

少し興味深いお話を拝読したので、私がユディト記を読んで、理解したことを書きたいと思います。


ユディトという女性


ユディトとはイスラエルの民(イスラエルの十二部族の一人、シメオンの子孫)の信仰深い未亡人です。
美しく、魅力的な女性だと、聖書の中では描写されています。

ユディト記ではユディトが登場する前に、イスラエルの民を襲う敵国アッシリアの将軍ホロフェルネスという人がベトリアという町を襲撃しようと画策していました。

それで、ベトリアにいるイスラエルの民たちは混乱し、恐れました。
ベトリア襲撃の話は、そこに住んでいたであろうユディトの耳にも入りました。
そして、ユディトは動きます。

彼女はまず、町の人たちに神を信頼するように説きます。
それから、町の長老たちに、ユディトが何かしらのことをすること、そして、それを詮索しないようにということを伝えます。

彼女の神様に対する信仰の深さは、町の住民に神を信頼するように言っただけでなく、自分の計画を実行する前に、神に深く祈ったことです。

キリスト教はこの祈りがとても大切です。
イエス・キリストとお話する時間だという認識で、クリスチャンの方々は日々、お祈りをしています。
そうして、誰にも言えない悩みや苦しみをイエス様に預けることをしたり、嬉しいこともお話するのです。

それはさておき、ユディトは、敵国の将軍ホロフェルネスを、女の武器と知恵を使って倒すことになります。
このユディトの勇気ある行動が、イスラエルの民を救うことになりました。


賜物とは


キリスト教ではよく、特越した才能や能力を賜物と呼びます。
それは、たくさんあって、聖書に書いてあるものもあります。
ですが、聖書にはない日常的なもの、料理が得意、優しい、事務仕事が出来るとか、そういったものも賜物と扱います。
賜物はイエス様を信じている人は誰でも神様から与えられるものです。

ですが、盗みといった悪いことを賜物とは呼ぶことをしません。

それはなぜか、賜物は愛から出るものだからです。
ここが難しい話ですが、この愛とは人の愛ではなく、イエス・キリストの愛です。

イエス・キリストの愛って何だろう?
イエス様の愛とは、私たちの罪が赦されるために十字架にかかって、死に、復活してくださる愛です。

これだけだと、意味不明だと思います。
キリスト教の理解では、私たちは生まれながらに「神様から離れている」という罪を犯しています。
アダムとエバが、神様から食べてはならないと言われた善悪の知識の実を食べてしまったことから、その罪は始まりました。
これを「原罪」と言います。
この原罪によって、人類は世の中で苦しんで生きるようになりました。

その人類の罪が許されるためにイエス様は十字架にかかられたのです。

相手の命を助けるために、命を懸けて死ぬほどまで、人を愛すること。
これがイエス・キリストの愛なのです。

ところで、賜物の話に戻りますが、盗みとか殺しとなると、イエス・キリストの命を救う愛とはまた違ってきます。

しかしイエス様は、その生涯の中で悪人としてユダヤ人たちから断罪されていた、当時の売春婦や取税人(税金を取る人たち)を愛しました。

それは、なぜでしょうか?
イエス様のような救い主を助け求めていたからです。
イエス様はたくさん間違ったことをしていた人が大好きでした。
イエス様は正しい人のためにこの世に来られたのではなく、人生の道を踏み外している人のために来られました。
私も、人生の道を踏み外した人の中の一人です。
その人たちが救われるために、イエス様は十字架にかかられました。

人と仲良くなれること、打ち解けられること、これは色々なところで能力が発揮されると思います。
この力をイエス様のために、人を愛するために使うことが出来るならば、それこそが賜物なのです。

最初に書いたユディト記のユディトは、敵国の将軍に嘘をつきました。

実はユダヤ人には、「嘘をついてはならない、人を殺してはならない」という律法という名の神様が定めた掟があります。
しかし、ユディトは嘘をついて将軍に近付きました。そして、将軍を殺しました。

この神様が定めた掟を破ったユディトは断罪されるべきなのでしょうか。
いいえ、違います。

この嘘と将軍の命を奪うことによって、イスラエルの多くの民をユディトは救いました。
ユディトは神様を愛し、神様に祈り、イスラエルを守るために働きました。

ユディトの動機は愛です。
敵国の懐に入って自分の身を危機に晒しながら、同胞の命を救うために勇気を出したユディトは素晴らしい女性です。

そして、このユディトのイスラエルの民を助けた美貌と知恵、これこそ、ユディトの賜物でありました。


おまけ


イエス様は「人生の道を踏み外した人が大好き」と先述しました。
それは、私も例外ではありません。
私の場合は、病気と精神障害でした。
私は社会に出て働くことが出来ません。
本当は精神科病棟に入院しなければならないほどの人間です。
それでも、こうして日常生活を送っていられるのは、イエス様が私と出会ってくださったおかげです。

だからこそ、このように「人生の道を踏み外した」と書きました。
クリスチャンには、弱い人が多いです。
病気を抱えている人もたくさんいます。

私はこの病気の症状のために、たくさんの人を傷付けてしまいました。
親を本気で嘆かせ、泣かせてしまったこともあります。

でも、そんな親不孝な私でも、どんな人でも、イエス様はイエス様を信じる人を許してくださいます。
もし、罪意識に苛まれているならば、いきなり教会に通うのは難しくとも、聖書を読んでみてください。
今は誰でも聖書が読める時代です。


聖書の紹介


聖書には面白い話がたくさんあります。
今は携帯のアプリで聖書を読める時代です。
YouVersionという聖書アプリは、世界で読まれているアプリで、無料で、カルトといった類のものでない、正統な翻訳の聖書が読めます。

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どこでも読めるので是非とも、ダウンロードして読んでくだされば幸いです。

ちなみに、本記事で紹介したユディト記は日本語の「新共同訳」という翻訳に掲載されています。
YouVersionでは、「新共同訳」「口語訳」「JCB(リビングバイブル)」の三つの日本語翻訳があります。

「新共同訳」には他の翻訳には収録されていないお話があります。
聖書を読むのが難しければ、「リビングバイブル」が、意訳ではありますが、読みやすいように簡単に訳されていますので、オススメです。

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