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神の家族と礼拝

神の家族とは


まず、礼拝を共にすること。
その中での説教と説教の実践である司牧を受け、腹を割って話せる関係を司牧者と築くこと。

特に礼拝では、リアルタイムで顔を合わせて礼拝を捧げる。

そうすると、礼拝者たちは個々の霊が結び合わされ、神の愛の下で一致する。

これによって、人間の好き嫌いを超越した愛の関係も作り上げられる。

それが、神の家族の関係である。


人に躓く


対して、人に躓く(この言葉遣いは私の本意ではない。イエス・キリストに躓くことはあっても、人間関係によって積極的に教会に行かなくなることは信仰とは関係ない)とは、神の家族としての関係が築き上げられていない。

それは、司祭や牧師、信徒のどちらも原因となることがある。

司祭や牧師による断罪、説教で福音が語られない、いじめ、困窮者や病者・障害者に対する過度な献金の要求など。

信徒においては、信徒同士の関係で揉めて互いに非を認めないこと、冷えた信仰、説教を聞く耳の飢饉によって、自分から教会を去ることがある。

司祭や牧師がもし信徒の某かを脅かせて、または福音を語らずして躓かせるならば、司祭や牧師に責任が問われる。
実際に私も司祭に嫌われて教会から追い出された。
しかしその場合、信徒は信仰を持っているので、別の教会に通うか、家庭で信仰を守ることが往々の結果になるだろう。

だが、信徒側が自身の感情やトラウマを土台にして、福音に耳を塞ぎ、イエス・キリストに目を背けて、福音を語る説教者を責めて教会から出るならば、信仰を失うか冷えきった信仰になる。
立ち返るならば、信仰に戻ることが出来る。けれども、悔い改めがなければ、キリストに対して罪を犯し続けることになる。
それでも、救いが失われることはない(地上で祝福を受けるかは別)ということは留意すべき点である。

人に躓くとは、神よりも人を見ているということ。同じ教会の信仰者を兄弟姉妹・家族として見ていないこと。
己の力で実践することは難しいが、祈りと共に自分が人を愛せないことを認めて、相手の非を追求し続ける醜い自分を嫌いになっていくことで、少しずつ歩みを進めることが出来る。

何も、最初から相手のために祈れとはキリストは求めない。人を通してキリストを愛せない私たちを三度(完全に)、七の七十倍、キリストは赦してくださる。

たとえ、相手が嫌いであってもいい。好き嫌いと愛は違う。何年もかけて、相手のことを祈ることが出来るように、相手に関心を持ち続けて祈り求め続けるのだ。


愛とは


キリストを愛すること。
神は人から愛される必要はなかった。
しかし、神は人を愛した。
だから御ひとり子をこの世に送られた。

私たちが神を愛する唯一の方法は礼拝であること。
礼拝は神の呼びかけに対する応答。
何よりもキリスト者の最大の特権である。

捧げる価値もない己の心身と時間を捧げること。

砕かれた心を神の御前に捧げよう。


神の家族と礼拝


これらは、私が牧師から教会で教えられたことと、礼拝する中で、信仰生活を送る中で教えられたことである。

即ち、神の家族として一体となって、礼拝する。

交わりで、神に教えられたことを互いに分かち合う。
交わりの中で、自己の欠けた部分を指摘された時、そして、鋭く痛い質問を受けた時、謙遜に受け答えすること。
それが、愛の交わりである。

真の礼拝者は、縦との繋がり(神との繋がり)も、横との繋がり(信仰者との繋がり)も大切にし、交わりを通して研ぎ澄まされる者である。

そのためには、同じ教会で、心を合わせて主を賛美し、同じ説教を聞き、同じ時に、キリストの血と体に与らなければならない。
賛美の一致、説教の一致、主の食卓での一致、これを通して、私たちは主イエスとも、兄弟姉妹たちとも霊において一致するのである。

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