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信仰の行き詰まり

皆さんは信仰に行き詰まったことはないだろうか?
イエスを主と信じているのに苦しくて仕方がない。祈ることも出来ない状態が続く。
今の信仰で乗り越えることの出来ないことに出遭ったことはないだろうか?

私がそういったものに出会ったのはつい最近である。

事の経緯は昨年に遡る。私たちの教会は牧師の指導の下でロザリオを祈り始めた。
それまでは、私たちの教会はプロテスタントの単立教会でマリア崇敬を実践していなかった(それまでに5年間、牧師はマリア論の講座を勉強していた)。

私自身はカトリックの親戚が身近にいて、ミッション系の保育園出身だったので、実は聖母マリアが愛情の対象として大好きだったが、洗礼を受けるにあたって、もちろんイエス・キリストを信じていた。

そして、ロザリオが教会で実践された時、私は聖母マリアと再会した。
私は、所属教会においては、マリアを愛してもいいのだとホッとしたのだ。

そして、私は初め、ロザリオを使ってマリアに取り次ぎの祈りをしていた。
しかし、私が体調不良が全面に出た時はロザリオを祈ることも、もちろん言葉で自由に祈ることも出来なくなる。
それどころか、主の存在さえ忘れてしまうほど、自分の症状が酷かった。だが、私には病気は言い訳にしか過ぎず、ただただ、主に対して罪意識を感じていた。

これが、私の信仰の行き詰まりの一つである。
今までやってきていた祈りや信仰は私の不健康の前には通用しなくなっていた。

そしてある時、体調不良で寝込んでいた時、ベッドサイドにかけてあったロザリオのことを思い出して、ロザリオを手に持って握ったり、頭の横に置いて眠っていた。そうすると、自ずから主への想いが私の心の内に表れてきていた。

聖ヨハネ・パウロⅡ世は、マリアへの崇敬はキリストへの信仰に繋がるという言葉を残している。
その通り、マリア崇敬を形にしたロザリオは、私にキリストを思い出させてくれたのである。

そして今、ロザリオで祈る時は、とりなしの祈りをしている。自分、家族、教会に来る人、私たちの教会のために、私はとりなして神に祈っている。
それは、牧師が始めたことだが、とりなしの祈りを私も始めた時、定型文の祈りをしてからとりなしをするため、スッと祈りに集中することが出来た。

もう一つ、私には誰にも言えなかったことがある。
それは、私は信仰生活を送る上で、常にキリストはいるのかと問いかける声が自分の中にあったことだ。
突然、何の前触れもなくそう思ってしまう。
そんなはずはないと何度も否定しても出てくるのだ。

私はロザリオを始めるまでそのことに思い悩まされてきた。
しかし、ロザリオの祈りを始めて、キリストへの疑いが霧散した。
「インマヌエル」。主は共におられるということをロザリオを通して、私は体験した。
だから、私はマリアへの崇敬がキリストへと繋がるということを告白しよう。

マリアはキリストへの導き手なのだ。
マリア崇敬とは最終的にそこに帰結する。だから、マリア崇敬に違和感があるなら、まずマリア論を学んでほしい。
私も含めてキリスト者の中に、「私は主のはしためです。あなたのおことばどおり、この身になりますように」と、本気で祈れる方は、いるだろうか?

余談だが、ロザリオを祈らない教会に私たちが通った時は、ロザリオで祈ることは絶対にしない。
それはもちろん、他のプロテスタントの方を躓かせないためだ。

だが、前々に牧師から教えられていたことではあるが、本気でキリストを信じようとすると、信仰の行き詰まりに遭うのだ。
だから、私は教派などにこだわって他を否定することが、どれだけ勿体無いことをしているかが分かった。
キリストを信じる先人たちに学び、信仰を深めていきたい。

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