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言葉・おしゃれ・哲学の関係性♪ 感想その5/「藤田嗣治のミシン」

「言葉の服 おしゃれと気づきの哲学」

ゆっくりと読み進めています♪

この本は、まるで「言葉の宝石箱」のように
私の心に響きます。
新鮮な知識の波を受けとめながら読み進め
ていくと出会える、やわらかく光る言葉たち。

今日は、「藤田嗣治のミシン」 。


エコールドパリ(パリ派)は1920年代に
活躍したピカソやモディリアーニなど
外国からパリに集まった芸術家の1群
だが、その中でも日本人の藤田嗣治は
異彩を放っている。
乳白色の下地を画面に作り、細い輪郭
線を墨と面相筆で描いて、誰にも真似
のできないオリジナルな作品を数多く
描いた。
そんな藤田に私が初めて強い興味を持
ったのは、実は絵よりも人そのものだ
った。
ぱっつんと真横に切った前髪、ピアス、
丸メガネとちょびひげ。
そしてその強烈なファッションセンス。
パリと言う異国でいかに自分を際立た
せ、プロデュースするかを周到に演出
した人だった。
だが、それだけではない。
職業柄私が最も強く惹かれたのは、こ
のミシンを踏む藤田の写真だった。


ランニングシャツ雪駄を履いて、足踏
みミシンを踏んでいる。
裁縫は女性の家庭仕事だった時代に、
太い葉巻を口にくわえながら、まるで
お気に入りの車でドライブするように
、ミシンを巧みに扱っている藤田は自
分が着るための服を自分でデザインし、
裁断縫製した。
服だけでなく、仮装パーティーの衣装、
カーテンやベッドカバーに小物入れ、
ヌードモデルの背景に使う布まで、
お気に入りの布を使ってミシンでどん
どん縫いであげた。
こんな画家が、かっていただろうか?
そして芸術にファッションを持ち込ん
だ男を今度はファッション業界が利用
した。
パリのブティックのショーウインドー
に、藤田そっくりのマネキンがおしゃ
れな服で登場したのだ。
そのマネキンの横で、得意げに肩を組
んで藤田が写真に収まる。
こんな出来事が、さらに彼を有名にし
た。
それにしても洋服作りにはかなり専門
的な知識や経験が必要だが、なぜ彼
にそんなことができたのだろう?
また陸軍軍医総監の御曹司として生ま
れた明治の男が自分や妻が着るための
服を中心に作ったのはなぜだろう?

1916年、まだ若くて貧乏だった時代、
藤田は第一次世界大戦で危険な状況下
のパリから逃れ、一年ほどロンドンに
疎開した。
そして生活費を稼ぐためにした仕事が、
高級百貨店セルフリッジズの縫い子だ
った。
おそらくここで本格的な裁断やミシン
の使い方の基本を学んだのだろう。
そしてパリに戻ってからは、好みのも
のを買ってきて、世界に一着だけの自
分のためのオートクチュールに「はま
った」のだ。
その理由は単に目立ちたいからだけで
はなかった。藤田はこう書いている。


〜芸術家はよろしく
芸術品を身に纏うべし〜

たとえ無名で貧乏でも、自分らしい
工夫をかさね、生活全体を手作りす
れば、誰も真似のできないオリジナル・
スタイルを作ることができる。
それは彼にとって、世界に認められる
芸術家になることと同じであった。
日々の生活を自分らしく美しくする。
藤田は81歳でフランスで亡くなるまで、
絵を描きながら愛用のミシンを踏み続
けた。


私も、藤田嗣治の絵よりまず風貌に
インパクトを受けた。
(私が尊敬している中原淳一もパリ
へ行ってから藤田のような髪型に。)

絵を描くことも服を縫うことも、アク
セサリーを作ることも『創作』するこ
とに変わりはないのだと思う。

自分らしさを表現したい!と考えると
作品も身につける物も自分で考えて作
るしかなのだ。





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