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17歳のひとり坐禅(1)


僕の頭の中にあるいろんな事柄をゆっくりほどいていきます。
それが僕に何かしらの解釈を許す形に変化してくれるかどうかは、まだ分かりません。


まずは、人間関係について。


僕は多分、というかおそらく、元来承認欲求の強い人間です。


違う言い方をすれば、周りの目を気にすることの多い人間です。


だからこそ、他人の言葉に傷つきやすい。他人の言葉を流してしまって自分の可能性を100%信じるということが難しい。


得意な分野になると別ですが、いざ自信にいささか欠けることとなると、すぐに他人の目を気にしてしまう。


この前、僕は高校でできた友達3人と旅行に行きました。
しかし仲が良いからか、僕が強く言うことがないからか、彼らは(僕も、かもしれない)あまり人の気持ちを考えることなくものを言います。


ある時には見下した態度で、ある時には面白がって、ある時にはマウントを取るために。


正直に言うと、僕は彼らのそういった心のない言葉や態度が、ものすごく嫌いです。


個々人は好きです。二人でいるときは何も害はありません。しかし、集団になって、そういった心のない言葉を投げかけ合う雰囲気、趣向は好きではない。


僕は、そういった場にいることの意味ってないんじゃないかと思います。
もちろん僕が誰の言うことも気にしないメンタルお化けだったら話は別ですが、物事はそう簡単ではない。


いるだけで傷つく空間に、幸福の生産性などありはしない。


僕はどうすれば良いんでしょうね?


まず第一に、人には皆所属する集団を選ぶ権利があります。


だから今回のことで僕はこの集団でいることを選ばないようにしようと思いました。個人とはこれからも付き合っていきますが、先にも言ったように幸福の生産性がない場所を自ら選ぶ必要性なんて何一つない。



それで彼らが僕のことを切ったとして、それはその時だし、それに新たに所属する集団を選べば良いのだから。



今日、英語学習の一環のTedのディクテーションで幸福についてのスピーチを見ました。



それによると、幸せが依存するものは、富でもなく、名声でもなく、健全な人間関係だということです。



僕たちはいつも知らないうちに何かしらの縁で繋がっています。



それを全て断ち切ってゼロにすると言うことは不可能に近い。そういう意味で僕たちに孤独というのはあり得る概念ではない。(縁的な観点から言えば)


だからこそ、そんな縁をありふれたものではなく、自然と善い事柄を産んでゆく、良縁にすること。


そして時には縁を選び、感謝し、結んで、その先にある明るい未来に胸を弾ませること。


選択の権利がある、と言いました。
その目的語は、僕にとって縁です。
そして付け加えるならば、「育てる縁を」選ぶ権利がある。



身を蝕む悪縁にいつまでも身を置く必要はない。育てる縁は選ぶことができる。この短い人生、不変と可変のラインを明確にして、明るい縁に限りない情を注ぐこと、これが大事なんじゃないでしょうか。



そして、メンタルというものについて。


多分これは僕の中でもう答えは出ているんです。


確固たる自信を持つこと。自らを信じる努力をやめないこと。
そして他人のうわ言に耳を貸さないこと。他人は他人、自分は自分。


いつだって行動を選ぶことができるのは自分だけ。他人が僕の人生を生きるわけではない。


だから何を好きになったっていい。人に迷惑をかけなければ、どんな人生を生きたっていい。


「何を好きになったって良い。俺の人生、俺の勝手なんだから。」


「俺の人生、生きてるのはお前じゃなくて、俺だから」


こんな言葉を、いつだって自分の心に、そして時には強く口に出して言える人間でありたい。



そしてスポーツの試合の際には、
努力という裏付けを信じて、相手を呑み、肚で攻め、周りを気にせず、自己に沈んで、堂々とした態度で臨む。


やるのは自分だから。他の誰かが僕の代わりに試合に出るわけではない。お前は関係がない。関係があるのは自分だけ。自分という確かなエリアを常に維持し続ける。


そしてそれを思うだけでなく、口に出す。


話は変わりますが、今日、あるお寺で坐禅を組みました。


こういった事柄に心を悩ませていたこともあって、何か気持ちが晴れるのではないかと期待していたのですが、意外とそんなこともありませんでした。
(一回だけで効果を期待する方も無理はありますが。)


しかしこうやってパソコンに向かって、文字を打ち込んでみるとどうでしょう。


絡まっていた事柄がいつの間にか整然として僕に新たな解釈を差し出している。そしてその解釈は僕に新たな視点と世界を与えてくれる。


座禅で整う人もいるでしょう。しかし僕にとっての坐禅は、こうやって書くことなんだと思います。拙い言葉でどうでも良い事柄にどうでも良くない形を与えていくことにあるのだと思います。



こうやってパソコンの前で一人言葉を編み禅に浸る時間を、忘れてはいけませんね。












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