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阿弖流為の死に様~蝦夷というマイノリティと共にあった英雄~中編

 本稿は、中編ですので、前編から見ていただくと幸いです。ただ、本稿からでも、内容は理解できると思います...



 多賀城(太平洋側の蝦夷征討の拠点)創設の後(724年?)、律令国家側はしばらくは蝦夷側に対して目立った戦闘行為には出ていない(=不干渉)し、蝦夷側にも大きな反乱はなかったため、平和な時代がもたらされたといって、差し支えないでしょう。


 しかし、律令国家側が何もしていないかと言われたら、そういうわけでもないのです。以下、律令国家が724年~770年までに東北地方付近で行った主な行為を記していきます。

   (737年 大野東人が陸奥按察使となる)


 757年 陸奥国(=太平洋側)桃生城(モノウ)、出羽国(=日本海側)雄(小)勝城の創設(=これらは、「蝦夷が住む」と、暗黙のうちに決められた国境線を超えて造られていました。)(A)


 767年 陸奥国伊治城の創設(伊治城創設にあたって、道嶋(宿禰)三山氏の功績が称えられる)






 暗黙のうちに決められた国境線を超えて、律令国家側が、北方へ支配領域を広めようとすれば、蝦夷側も警戒し、時には小規模な反乱も起きていたと思われます。


 ところで、どんな物事にも二面性が存在します。歴史を見ていく時には、重要な視点です。


 蝦夷側からすれば、支配領域が広がることは悪い面と言うことが出来そうですが、では、これらの城が創設されたことによって、蝦夷側にはどのような良い面があったのでしょうか?


 それは、経済的繁栄をもたらしたという点でしょう。例えば、桃生城は北上川(岩手県中央部から宮城県石巻市までを流れる河)の船運を押さえる役割があったようなのです。(B)

 つまり、北上川付近で蝦夷と律令国家側の貿易を盛んにするという目的が桃生城には存在し、

 さらに、

 阿弖流為の一族が、その貿易の中心となって動いたようで、大いに繁栄したようです。(C)



 そして、もうひとつ押さえておいて欲しいことがあります。

 伊治城創設にあたって、その功績を称えられている道嶋氏は、その後、「圧倒的な政治的権威を誇り、非蝦夷系豪族や蝦夷族長(中略)などをことごとく自らの政治的傘下に収め、盤石の安定感をもつ鞏固な支配体制を構築していた」(1)ということであり、

 これはつまり、

 小規模な反乱ぐらいであれば、律令国家側の手を煩わせる必要もなく、道嶋氏が鎮圧できたことを表しており、

それは同時に、道嶋氏が没落すれば、その反乱が律令国家側に顕在化する可能性を示唆しています。






どんな権力者も、いつかは衰えていきます。

 これは、歴史の常だと思っていましたが、何となく、今を生きている筆者は「そうではないのかもなぁ~」と思ってしまうことがいくつもあります。



 よく考えれば、そう思っても仕方がないはずです。

 なぜなら、私たちは歴史を学んでいくからです。つまり、過去の権力者が衰えてしまった歴史を私たちは学び、自分たちが衰えないように活用していくからです。

 でも、”衰えない”ってことはないはずなんです。いつか、どっかで、衰えます。

 今、日本を後ろから牛耳る権力者は、一体いつ衰えていくのでしょうか?


権力者?


 そんな話はさておき、道嶋氏の没落はすぐにやってきます。まず、

770年 称徳天皇が崩御し、新たに光仁天皇が即位しました。

ちなみに、この後、

光仁天皇→桓武天皇→平城天皇→嵯峨天皇

と即位していくことを頭の片隅に入れておいて下さい。

桓武天皇 画像

 あと、これは、「当たり前だよ」と言われるかもしれませんが、

 天皇はこの時代最も権威を持っていた

 ということも覚えておいて下さい。ただし、

 権威と実権(=実際の権力)は異なる

 のであり、この時代は、天皇実権者をセットで覚える必要があるわけです。

 例えば、称徳天皇であれば、道鏡というお坊さんが実権者でしたね。




 道嶋氏は、称徳天皇や道鏡といった人たちから、並々ならぬ厚遇を受けていたと考えられる(D)ため、称徳天皇の崩御や道鏡の政界追放は、道嶋氏にマイナスの影響を及ぼしたようです。


 さらに、新たに即位した光仁天皇は、

 道嶋氏以外の人物(=大伴駿河麻呂)を、陸奥出羽国按察使(按察使とは、行政の責任者のこと)に任じ、道嶋氏と軋轢が生じたと思われます。

 つまり、

道嶋氏の政治体制に、ほころびが見え始めたわけです。


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