見出し画像

*13 学問的ローマンチック

 大凡おおよそ二年前からいで来た手元のサワー種がついついえた。つい有給休暇で部屋を空けるという理由から冷凍庫で保管しようと試みたのがついあだとなった。何時いつだかに一度、凍ったサワー種の一部を欠き取って常温に戻した後使った時にはまだ機能していたから、その時の要領で先週末に試してみたところ、常温に戻ったサワー種と粉と水を混ぜた粘体ねんたいは翌日になっても変わらぬ姿で、匂いを嗅いでみても本来の鼻を突く酸い発酵臭は無く、虚無にぼたっと容器の中に寝そべっていた。何とも言い難い愁哀ものがなしさがあった。
 
 
 まあこうなってしまった以上また起こすより他に打つ手もあるまい。瓶の中にレーズンと水とそれから微量の蜂蜜を垂らして酵母液を作るところからである。こうも単純な物の組み合わせからまた命が生まれるんだから全くこの世は神秘に溢れている。そうしてそれら神秘の起源も時代は違えどこの世で起こっているんだから歴史は全く浪漫Romanである。
 
 
 
 継続は力なり、と言う言葉がある。二年継いできたサワー種がこうして呆気なく潰えたと聞くと、嗚呼ああ積み上がって力に成るばかりが継続でも無さそうだなと反射的に悟りたがる者もいるかも知れないが、この場合の主語は私であるから、二年サワー種を継いだ事で積み重なった経験と言うのがここでは力と呼ばれているわけであって、或る特定の結果を「力」と比喩たとえている言葉では元来ないのである。ところが殆ど時同じくしてたった今否定したばかりの後者の「力」も現れたのが今週であった。
 
 月曜日に休みが入れられていて、先週の土曜日から数えて三連休が唐突に発生し、贅沢にもその使い道に困っていた私であったが、結果として三連休であった事が救いとなった。この月曜の休暇を使って、私はトミーに依頼された絵を何とか描き上げる事が出来た。元々パンも焼くつもりでいた私であったが、何の因果か先述通りサワー種の息の根が止まってしまっていたから作画に集中出来た。朝の六時頃から手を付けて、結局八時間とついやした絵を翌日火曜日、仕事を終えた彼に手渡すと、私の思っていた以上に大変喜んで貰えた。私が「力」を感じたのは何を隠そうこの時であった。自分が手掛けた物が直接人を喜ばせると言うのは一般人として生きる私達の生活においてそうそうある事でもあるまい。変に感動る様な真似もしなかったが、それこそ幼少期には好きで描いていた絵を三年前に本腰を入れて練習をし、それから毎週一枚描いて来た先に予想だにしなかった結果が起こった事実を俯瞰で眺めると妙に感慨深かった。
 
 もっと込み入った話をすれば私の性分として相手の期待を圧倒的に上回る事で起こる笑いを欲しがるというのがあった。それを私はボケと呼んで生きて来たわけであるが、ドイツに来て初めの三年間、職業訓練をしていた頃に寝る間も食う間も惜しんで机を齧ってはドイツ語に製パン知識に仕事に向き合ったのも、畢竟ひっきょう何も知らないアジア人がクラスで一番の成績を取るというボケを、言葉は覚束無いが仕事振りは誰よりも素晴らしいというボケをしたいが為の事であった。そうは企んでいてもなかなか壁は高かったから、今回ほどの手応えは実際ほとんど初めての事であった。

 トミーは私の絵を受け取ると嬉々として工房を後にして帰って行った。それで残った私とマリオで何だかんだと話しながら仕事をしていると、間も無くして販売婦のジェシーが工房に入って来た。そして私を見るなり「ちょっと、あなたの描いた絵見たわ。凄いじゃない、知らなかったわ。ひょっとして私にも一枚描いて下さらない」と翌週に誕生日を控えた父への贈り物として絵の依頼をして来た。私は殆ど二つ返事で引き受けた。すると今度は販売婦のペティが来て「その内私からの注文もあるからお願いね」と目を輝かせながら言って来た。この時ほど青天の霹靂と言う言葉が我が身を包んだ試しはこれまでの人生でまるで思い当たらなかった。何より私の描いた絵がこうも人を笑わせたと言うのが、新鮮な手応えを私の手に与えた。
 
 

 いや然し君、本業のパン職人としての継続はどうなのかね、と言う声が聞こえる前に自問した時の自答を先立って書いておくと、パン職人としての継続は現在の私自身そのものである。すなわち何か特定の出来事としての「力」ではなく、私の五臓六腑ごぞうろっぷ皮肉骨霊ひにくこつれいに積み上がった経験こそが「力」なのである。私がトミーとドイツパンの仕組みについて話すのも、ルーカスと翌週の製造計画プランを練るのも、アンドレと冗談を言い合うのもマリオに彼是あれこれ教えてやるのもどれも八年の継続の上にあるものであって、まさか一朝一夕にこれらを全て理解しこなしてみせる様な天才であったら態々わざわざ八年も時間を費やさずにパンのいろはを解き明かしていたに違いない。ローマですら一日にして成らないと言うのに、私の歩んでいる学問が一日で成るだろうか。いやそもそも私はまだ発展の途上である。経験は積み上がれどマイスターと呼ばれど知らない事のまだ沢山ある修行の身である。ローマを成すには一回の生涯では屹度きっと足りず、すなわち、子曰しいわく、学は及ばざるが如くするもおこれを失わんとおそる、なのである。
 
 
 物事はいずれも娯楽的方面と学問的方面とに分かれる分岐ジャンクションがある。分岐ジャンクションと言うくらいであるから、幾ら景色が良く似ていたってそう都合よくは交わらない。特に異なるはその道の長さである。娯楽的方面へ進んだ場合、満足に到達する迄に然程時間を要さない。ところが学問的方面へ進んで行くと満足迄が成程遠い。或いは果てしない。然し世は親切である。何れの道にもインターチェンジが随所に設けられている。余りの道の果てしなさに嫌気が差したら何時でも下道に降りて何処へでも好き勝手行けるのである。
 
 すると今度は同じ学問的方面に進んだ車同士でも走り方に違いが出る場合がある。一つはただ真っ直ぐ前を向き、流れる景色などには目もくれず目的地のみを目掛けて走って行く。一つは同じように車を走らせながらも、景色を眺め、天候を観測し、後続車を確認しつつ、現在地を把握しながら目的地を目指す。時にはサービスエリアでその土地ゝゝとちとち名産品を味わってはその地域の特色を見出そうとするかもしれない。どちらが良いと言う話でも無いが、或る一つの事柄を知る為にはそれ以外のあらゆる森羅万象に興味を持つ事も大事である、と言うのがこの場合後者を走る私の持論である。
 
 想像を遥かに超える歴史の上に残された物事の多くは、学術的に文字と数字で切り取られた姿で後世に受け継がれている。如何に細密にデータが記録され残されていたとしても、文字や言葉の形で残された物のみを受け取る事の出来る我々は残りの三感を持て余さざるを得ない。然し世界は一つである。世界が一つなら歴史も一つである。歴史が現代を創ったのなら現代社会に歴史は映り、生活に風土が映るのである。そうした事を全て網羅し、見知し、理解し、記憶する必要などは全く無く、ただ、それらの事柄に関心を持つ事である。己の進む道の上の天候に、景色に、名産に関心を持つのである。そうした時に初めて、開いた文献の欄外余白らんがいよはくに残された匂いを、味を、空気を読む事が出来、そうしてようやく記録された文字の解釈が深まるのである。
 
 
 一方で娯楽的方面へ走るとインターチェンジ毎に感動や喜びが待っている。そこで満足すれば何時だって平気で道を降りられるわけであるが、この土曜日、私はトミーの恋人がオーナーとなる店の開店に際して店を訪れた。彼から招待されていたのもあったが、無論私の描いた絵が店内に飾られているのを見るのが最たる目的であった。これも一つのインターチェンジである。これ程の喜びがあったんだからこれ以上を追う必要もあるまい、と言いたいところであったが次のインターでジェシーが待っているからまだ走る理由がある。成程なるほど、こうして道が随時伸びていく事もあるらしい。それなら流されるようにただ前に道を走るばかりである。全ての道はローマRomaに通ず筈なのである。
 



 
※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。 


こちらの作品もよろしくお願いいたします。

 【各種SNS】

YouTube 


instagram
 

Twitter


この記事が参加している募集

眠れない夜に

学問への愛を語ろう

この度も「ドイツパン修行録」ならびに「頬杖ラヂオ」への訪問、ありがとうございました。もしよろしければサポートもよろしくお願い致します。 引き続きドイツパンに真摯に向き合って修行の道を精進して参りますので、何卒応援の程よろしくお願い申し上げます。また来てください!