資格は大事だけどその先の経験値と人間力を上げていきたい
セラピストの仕事をはじめて約15年。
私は全然資格を持っていない。いわゆる民間療法と呼ばれるものはしっかりとした資格がないものが多い。あと他の分野でも言えることだけど、人によっては触れることが全く興味もない世界だと思う。それ自体の情報に出会わなかったり、たまたまネガティブな情報に触れていたりすると「怪しい、関わりたくない」と感じるんじゃないかな。
今ではすっかり自然療法とかスピリチュアルなどに浸かっている私でも、高校受験を控えていた頃、感情と食欲のリミッターどこ行った?と思う思春期なのかPMSなのかよく分からない数日間を過ごしたあとに、おや?ハンマーでぶん殴られているのかな?と思うほどの生理痛を体験していて、お母さんがどこかからか「生理痛には、どうやらホメオパシーってやつがいいらしい」という情報を仕入れてきて、いそいそと2人で教えてくれた場所へ行ったことがある。
現場へ到着して、車中から母娘でその場所を見上げると、手書きで「ホメオパシー(あと、電話番号か営業時間が書かれてたと思うけど、ホメオパシーが目立ちすぎていて忘れた)」と書かれていた大きな紙が窓に貼りつけられていた。そーっと前かがみで覗き込んだ体勢を元に戻して、ゆっくり見つめあう私たち。「…まあ、また機会があったら行ってみようか。他にも方法はあるかもしれないし」と言って、静かにUターンして帰宅した。
ここで前置きしたいのだけど、我が家ではついにインターネットという文明がやって来たぞ!という25年位前のことで、今みたいにアロマテラピーとか植物療法に関する情報は全くなく、大きな商業施設に行けばオーガニックの化粧品や生活用品がたくさん並んでいて、ポップに触れられる感じではなかった。まあ言い訳なんだけど。とにかくあの時、我々は完全に「これは、怪しい」と確実に思った。一瞬だったとはいえ、ハンマーの鈍痛(生理痛)を消してしまうほどに。
でもご縁というものは不思議なもので、私の人生には癒しやアロマテラピーの世界に深く関わることになったし、ホメオパシーも「ああ、あれね」という感じだ。無意識層で大切に思っていたり縁があるものや人とは、手放しても何度でも出会う仕組みにも納得できる。
自分が知らないことや前例がないこと、常識や一般的とか普通と呼ばれる以外のものと出会うと、不安になって疑ったり遠ざけようとして拒絶反応を起こしてしまう。ただそこを越えると、結構面白くなっちゃって更にハマったり、自分にはやっぱり合わないなということも、ちゃんと分かる。それに、沢山の学びがあったり、自分の世界がちょっと広がって楽しい。結論を出すことって結構大事だ。
ただ、世界を広げていくことの面白さを教えてもらった時の私が、そうかなるほど!と、「未知のものは怪しい」から「興味があって触れてみたい」に思考形態が急にワープしたわけではなかった。なんてったって、筋金入りのネガティブ拗らせ系の超びびりだったもの。でも、サロン開業を目標にした時、この性格ごと変えるしかないことに気づいてしまい、カウンセリングを受けていた先生に叱咤激励をされながら、意識のことを学び直して変えていった。
ある日、目標に向けて資格についての質問したことがある。私はアロマテラピーの知識についての資格は持っていたけど、もっと知識を深めたり技術を増やすために、スクールに通ったほうがいいかを相談をした。
先生は「許可や資格がなくても、明日から、セラピストです、占い師です、デザイナーです、写真家ですって看板を出して名乗ることが出来る仕事は沢山あるよ。ただ、サービスを受けてくれたり作品が売れるかどうかは、何かの資格を持っているかということは最大の理由じゃない。“これ(ものやサービス)には素晴らしい価値がある”という気持ちがあるから売れるんだよ」と教えてくれた。それに、「受けとる側って、他の人にとっては価値を感じられなくても、その人自身が価値を感じていたら、払いたくなるんだよ」とも。
お金はエネルギーで、価値づけで変わっていくものであって、循環させていくものだと教えてもらったのは新鮮だった。お金の価値についてはエネルギーと経済が変化していく時代の節目でもあり、まだ上手く言語化できないため、ここでは割愛。
対話の中で自分を深掘りをしていくと、私にとって資格を得ることは、純粋に知識を深めたいというだけでなく、「この人は資格を持っているから安心だ」と思われたいとか、経験値が浅くて資格も持っていない私のところ(サロン)には、どうせ誰も来てくれないという自分の価値を下げている思い込みがあることが見えてきた。
不安の埋め合わせのために資格を取ることは違う気がする。ちなみに、純粋に知識の探求だけがある場合は、資格を取ったあとに上手にそれを活かせて行けるけど、私の場合は「未熟で足りなものが多すぎるから、何かで補ってそれを隠そう」という自己肯定感の低さが心のほとんどを占めていた。微妙な違いなんだけど、それによって現実は大きく変わる。
先生と色んなことを話し合って、自分の性格の思い込みを外したり、サロンをオープンしても誰も来てくれなかったらどうしようという不安を癒して、最終的には、しっかりとした資格をとる選択はしなかった。その代わりに、沢山の個人サロンに足を運んで、トリートメントを受けたり、接客やインテリアを見て勉強をした。そして、「この人に教えてもらいたい」という何人かの方に手技やヒーリングの技術、カウンセリングやコミュニケーションについてを教わっていった。
私は、仕事のためでも趣味のためでも、資格を取るのっていいなと思う。何歳でも自分の中の知的欲求を高めていくことって素敵なことだ。私は仕事中に分からないことがある時、その都度インターネットで調べたり本を読んだりしているけど、しっかり学んでいたらもう少し違う対応が出来たのかな?とも時々思うから。ただ、知識を活かしていく経験(多くは失敗と思える経験)の中でしか学べないことも沢山あるなと思う。
例えば、ボディセラピストの仕事だったら、施術の技術は基本であって、前後の会話や空間の雰囲気づくりなど、まるごとに気を配っていくところも大事だったりする。
日常生活の過ごし方やお仕事の種類や役職、家族構成(お子さんが何歳くらいか、介護をしている人がいるか)で、体の使い方や悩みごとは変わってくる。わずかな仕草や話す時の表情や笑い方とか、(意外と)身に着けているものも、最近どんな気持ちでいて、今日何を求めてご来店されたかのヒントになる。(肌に触れても分かることだけど)「今は誰かと深く関わることが煩わしい」と考えているだろうなーと思うことも、割とよく分かる。人生のどん底にいて引きこもりたいほど辛いけど、マッサージに行きたい…誰かに体をほぐしてもらいたいって思うこと、私もあったな。
実際に施術がはじまると、体からよりダイレクトに伝わる情報を感じることがある。「あんなに笑ってたけど、本当は悲しくてつらくてイラついているんだな」とか、「失恋したって教えてくれたけど、これは次のロマンスがはじまってますね…♡?」とか。もちろん、シーーーーーーンとしている方もいる。
人の体と心は繋がっていて、それぞれが一致していたり矛盾していたりする。でも、どんな状態でも、人のより良い方向へ向かわせようとしている部分(自然治癒力)に意識を向けると、必ずみんなにそれを感じることが出来る。人って本当にすごいなあと、感じさせてくれる瞬間だったりする。
10年もこの仕事に携われば、言葉の端々や体からのエネルギーとして発する感情と、肌の温度や筋肉の質感とか、脈の速さをたしかめながら、手のスピードや空調や音楽の微調整を行うことは、さすがに知識と経験が積み重なっていくと瞬時にパッと理解して、いとも簡単に対応出来ると思ったら、ところがどっこい(この仕事のおもしろいところでもある)。
この人はこういう感じだからこうすればいいというパターンに当てはめすぎると「今この瞬間」に出してくれているサインを見逃してしまうことがある。過去に「まずい、やってしまった…今完全に間違えた…!」とやらかしてしまって後悔した体験たちが、それを教えてくれた。
人の体と心は、いつも同じということはない。自然を見ていても思うけど、この世界には安定はありそうで無い。桜が年中咲いていることもなく、季節はピークを迎えたら次の季節へ向かう準備に入り、移行していく。変化というか進化していくことが普通なのに、時々忘れてしまう。
私調べだけど、「いつも疲れたと話してくれる場所が同じだな」と思いながらほぐしていた時より、「前回から時間が経過してお客様にどんな変化が起きたんだろう」という意識に変えて向き合ってみたら、自分の中にある知識と経験の引き出しからベストな技術や言葉を渡せるようになってきたし、お客様の心を以前よりも開いてもらっている感覚がするようになってきた。人にも自分にも変化することにOKを出すと、世界の見え方も変わるし、直感力も高まる感じがする。
私の場合は資格というより雑学的な知識や、各年代の悩みごとを知っておくことも必要だったりするけど、バランスよく使いこなしていける自分の器を広げていくことが大切な感じがする。
まだまだ現状に慣れすぎず、好奇心を持ちながら、たましいをぴかぴかに磨いていきたい。
(最後の言葉は、ジュディアンドマリーを解散したてのYUKIちゃんが雑誌non・noインタビューで話していて、今も私の心の中にある大切な言葉)