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喋りのプロの私が喋れなくなった日の話①~本郷三丁目のスープ~

これから生きることを諦めてしまおうかと思うほどの悔しさを、あなたは体験したことがあるだろうか。
私は、その悔しさに生活の全てを支配されていたのである。

私は人生に一度の失敗を、した。

これは、いわば「喋りのプロ」の私が大舞台で大失態を犯し、
家や仕事から逃げるように訪れた飲食店で新しい価値観や人や、ごはんに出会っていく話である。

大失態の内容はあとにして、
それから。

何をしていても、何を考えていても、夜眠るときも、夢の中でも、朝起きた瞬間も
親しい人と笑いながら会話をしている時でさえ、常に目頭が熱いのだ。

頭が悲しかったり悔しかったりを意識して感じているわけではない。
今日はちょっとお腹がゆるいな、と同じように、常に今にも涙がこぼれ落ちそう、なのだ。

そんな生活をして1週間。
ただ、1滴の涙もこぼれ落ちることはなかった。
いっそ号泣でもしたら少しは楽になれるかもしれないのに、どうしても泣けない。

あまりのショックに、現実を受け止められていないのかもしれない。
現実をそのまま受け止めたら、自分が狂ってしまうから、自己防衛の本能で心のどこかでは事態を信じないように脳が指令を出してしまっているのだ。

まだ覚めていないだけで、「なーんだ夢だったんだ」といつか起きられるんじゃないかと。
こんなことが、現実なはずはない。これが本当なら、本当なら、とても生きてはいけない、と。

上京して初めて、家に帰りたくなくなっていた。
自分の努力の形跡を目にしたくないのだ。
家には、家事の全てもなげうって努力をした形跡しかない。
洗われていない食器も、山になった洗濯物も、見たくない。
今の現実しかないそこにいたら、本気で死んでしまうかもしれない、と思った。

もう1つ、生まれて初めて感じる感情があった。
「ひとりでいるのが怖い」だ。
理由は、現実のことを考えてしまうという、家に帰りたくない理由と一緒だ。
私は寂しさを感じづらい人間だと思うし、これまで精神的に参ったときはとにかく一人にしてほしかった。それが今、誰でもいいから私を一人にしないでと、そう心の奥底から乞うている。

こうなってくると、日常の唯一の安全な時間が、仕事をしている時になってくる。
もちろん、仕事が楽しくてしょうがないので、というわけでないのだが。
一人でいなくていいし、ある程度気が紛れる。
もはや仕事をしているときに、退勤後や休日のことを考えるとぞっとする始末になっていた。

12月の終わりのことである。

本来は休日だったのだが、お昼に1時間だけ会議で池袋にある職場に休日出勤した。
その会議が終わり、同じく会議のためだけに休日出勤をした仲のいい先輩3人とお茶をした。
そこでは楽しい会話をしていた。来月26日みんなでディズニー行こう!と。
大好きな人たちと、ディズニーに遊びに行く、普通こんなに嬉しくて楽しい話なんてないんじゃないだろうか。
なのに私はこれまでで1番、目頭の熱さを感じていた。なぜかはわからなかった。
こんなに楽しい会話中なのにこんなときに限ってお腹痛い・・・トイレ行きたい・・・そんな感じと同じように、こんな楽しい会話中なのになーんか目頭が熱いな、そういう感覚だ。
お茶が終わり、先輩の一人は仕事に戻り、もう2人は一緒に遊びに行くらしい。

ああ今から一人になるんだ、と思った。
私も一緒に遊びたい!とも不思議と思わなかった。

精一杯の笑顔で手を振ってお別れする。
それからひとりで駅の方向へ振り返ると笑顔を意識していた口角の緊張が解かれ、一気に能面のような真顔になったのがわかった。

ひとりになった。

これから、どうしよう。
家に帰ろうとはもちろん思えない。
家を想像すると、もう紫色の禍々しい気が家から漂っているように感じられる。
家だけじゃない、マックも、ファミレスも、カラオケも、満喫も、行けるところはみなそこで精一杯の作業をした、努力の思い出でいっぱいなのだ。
努力をしたのだ、大失態をおかすために。
トラウマで自分がどうしようもなくなるための努力を、寝る間も惜しんで。
そう思うと、この今いる池袋の町が紫色の気を放っているようだった。
私はそれから逃げるように、すぐに地下の池袋駅へと潜ったのだった。

ひどい顔をしていたんじゃないかと思う。
顔をできるだけスヌードに埋め、目をいっぱいに見張り涙をためている。
でもありがたいことに、やはりその涙は一滴もこぼれ落ちることはないのだ。

惨めさを噛み締める頭に、ゆらりとある場所が思い浮かんだ。
以前1度だけ行ったことのあるスープ屋さんだ。
池袋ではないが、池袋から近かった気がする。
調べるとそこは本郷三丁目、池袋から一本で行ける場所だった。
食欲はないが、もう池袋から離れられて自宅から遠ざかれるならなんでもいい。
私は丸ノ内線の改札に吸い込まれた。

本郷三丁目は、言わずと知れた東大のある駅だ。以前散策したときにそのスープ屋さんを見つけた。
駅から5分ほどにあるそこには迷わずたどり着いた。
階段を上り、2階にある店内に入る。
木目で統一された店内は、おしゃれかつ落ち着いた雰囲気がある。
前回来たときはお客さんは自分一人だったが、その日はお客さんでごった返していた。
昼時だからだろうか、ほとんど満席である。
私は蟹のスープのセットを頼み、辛うじて残っていたレジと厨房に一番近いカウンター席に腰かけた。

若い女性たちの談笑、お昼休憩に来ただろう男女の仕事の話、
英語、中国語・・・
さまざまな「声」が、「言葉」が飛び交っている。

それを聞きながら、私は小さい頃のことを思い出していた。



小さい頃から口が達者で人見知りのなかった私は、おしゃべりが大好きだったらしい。
散歩に行って親が目を離した隙にいなくなった私は、いつのまにか女子高生の団体の中に紛れていて「お姉ちゃんたちお話ちよー!お姉ちゃんいくちゅー?」と話しかけまくっていたらしい。
中学にも上がるとお喋りへの苦手意識のなさはそのままに、話を聞く手側に回るようになった。
そうしてみんなの相談役になることで、私の発言はより統率力を持つようになり、自然と3年間学級委員長だった。
誰の言うことも聞かないひねくれものも、どんな怖い先生も手をつけられない不良も、私の学級会での発言だけは聞いてくれた。
高校生になると生徒会選挙などでスピーチを頼まれるようになった。
あまり人前に出る印象のない私が壇上に上がったとたん堂々と喋り生徒を引き付けていく様子は、モラトリアム真っ最中の高校生にはカッコよく見えていたらしく、男子生徒からも尊敬する女子生徒として有名だったらしい。

そんな私を見た先生に「弁論」をやってみないかと誘われた。
弁論とは、壇上の上のマイクの前で、7分間で自分の体験や主張を延べ観衆を引き込む、スピーチのようなものである。
その内容や表現が審査員によって審査され順位が決まる言葉の競技である。
いわば「言葉のフィギアスケート」だ。

初心者として出た弁論部の強豪高揃いの県大会で、弁論部ですらない初心者の私が大きなトロフィーをもらってしまった。
大学を卒業して文部科学大臣杯に出場し準優勝して、全国2位となった。
自己顕示欲と自己肯定感が極端に低い私の、唯一人並み以上にできると思われることだった。
そして唯一、死にもの狂いで取り組んだものだった。
いい喋りができるなら、私は次の日のたうち回って死んだってかまわない。
だって私にはこれしかないから。

それが先日、始めて、壇上で言葉が出なくなったのだ。
始めて参加した弁論の全国大会「第2回高松杯」。
弁論ガールとしても活躍する若手女流弁士、高松瑞樹氏が発起した若い大会で、今回は発表中に観衆が野次を飛ばすことを提唱するという新しい取り組みを取り入れたルールとなっていた。
他の出場弁士から飛んでくる体験したことのない野次にどう対応したらいいか考えていたら、喋っている途中突然、スイッチが切れたように次の言葉が全く出なくなった。
頭がまったく回転しない。

全身の毛穴から汗という汗が溢れた。
どうしようもなくなった私は黙りこみ、えっと、えっとを繰り返し「すみません、頭が真っ白になりました」と絞り出した。
自分に何が起きているか信じられなかった。
原稿を忘れる=喋れない、ではないので、言葉が出てこないことが理解できなかった。
私は、「えっと、えっと」と繰り返し、震える声で適当な言葉を並べ、同じような言葉を不自然に繰り返し、精一杯の平静を装って壇上を後にした。

壇上を後にしながら、私は体内の血がマイナス100度くらいになっているように感じていた。
これを絶望というのだと学習した。

終わった・・・?え、終わった・・・?これが練習とかじゃない・・・?え、練習の血が出るほどの努力の成果が今、終わった・・・?これは夢・・・?

あと一度熱が高かったら確実に恵比寿ガーデンプレイスの窓から間違いなく飛び降りていた。
高熱で動かない体が地面に叩きつけられる衝撃を快感にすら感じたのではないだろうか。
壇上の7分間、あまりにあっけなかった。

これが、私の身悶えている失態だ。
この日40度の熱はあったものの理由にならない。

私は壇上を下りてまっすぐにトイレの個室に身を隠した。
比喩でなく、本当に手足が震え出してきた。
寒い、寒い。
これからどうやって生きていこう。
やり直しのきかない千載一遇のチャンスが無駄になったどころか、一生にあるかないかのトラウマが今刻まれた。
これから生きていくと思うと絶望する、まだ生命維持を続けなければいけないと思うと、気が狂う。
今まで努力したことが、恥ずかしい。真一文字に結んだ口から、もうなんの音も出したくない。

絶望の回想に没入する視界に、ほかほかのスープが現れてハッとする。

真っ赤なスープと、サラダと上品な固い丸パン。
温度のない手でスプーンをつかみ、スープを一口、口に運ぶ。
魚介とトマトの香りが口いっぱいに広がる。
スプーンで器の中をかき混ぜると、固いものに当たった。
掬い上げると、殻つきのカニの手だった。豪華だな、嬉しいな、身もしっかり詰まっていそうで・・・

とっても美味しそ(今唯一自分を誉めてやれることがあるとすれば、)
うだなぁ(気が狂っていないことだなぁ)

そう2つ同時に頭の中に浮かぶと、手元のカニが小刻みに震えだした。
そしてぼやっと蟹の輪郭がぼやけた。

目から、滴が落ちたのがわかった。

もう崩壊しかけた理性が辛うじて周りを見渡す。
気づけばお客さんは私一人になっていた。
今度は何粒か連続で滴が流れた。熱い熱い水だった。
嗚咽を耐えながらスープを口に運ぶ。

悔しい、悔しい、悔しい、悔しい、悔しい、美味しい、悔しい、悔しい、悔しい、美味し
、悔し、悔し、悔し・・・

3時間は泣いていたんじゃないだろうか。

声こそ出していなかったものの、本当に迷惑な客だったと思う。
店員さんは1回も私の肩を叩かずに、そっとしておいてくれた。

なんとかスープを食べ終え、嗚咽を落ち着かせた私は、店員さんに
「迷惑をおかけしてごめんなさい。また来ます」と伝え、店を後にした。

私は一切の口を開く動作をしたくなくなっていた。
本当にこのスープ屋さんには、感謝をしてもしきれない。
過剰な接客をするでなく、でも包み込むように私のような客を許し、そっとしておいてくれた。
私はこの時に店を追い出されたり、それか過剰に心配をされてしまって、何があったか聞かれて話さなければいけなくなったりしていたら、それこそまた東大の赤門に首吊りでもしたかもしれない。

しかも私はこの店に入ってから一度も、恨めしい自分の声を聞かずに済んだ。

一言も喋っていないのである。

違和感を感じられている人がいるだろう。
当たり前だ。
注文も、店員さんとのやりとりも、確かに私はしていた。

実はこれまでの会話全て「手話」で行われていたのである。

この本郷三丁目のスープ屋さん「Social Cafe Sign with Me」のスタッフさんはみな
ろう者(耳の聞こえない人)であり、お店の公用語は手話という
日本でも数少ないコンセプトのお店だ。

お客さんは聞こえる、聞こえないに関わらず、指さしや筆談、手話を使って注文や会話をする。
私もたまたま手話を使えることもあり、私は店員さんと手話でやり取りをしていた。

つまり私はたまたま「口を開かずに」いられたのだ。
この日の私にとって、それがどれだけ、ありがたかったか。


すっかり暗くなった本郷三丁目を、歩く。
何事もなかったかのような面持ちになっていることを願いながら。
きっとすれ違う東大生すら、私の心に隠された解は導けまい。

いつだか見ていたドラマで松たかこが言っていた

「泣きながらご飯を食べたことのある人は、生きていけます」

という台詞を思い出した。

 
 
 
 
 
 
 
 

「喋りのプロの私が喋れなくなった日の話 ②~新大久保の串カツ~」
に続く 

~Thank You~
本郷三丁目の美味しいスープ屋さん
「Social Cafe Sign with Me」
http://signwithme.in/reserve/

弁論の全国大会「高松杯」
https://takamatsuhai.com/
主催 弁論ガール 高松瑞樹
http://mizukibenron.com/

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