がみ

執筆力、文章力を身に付けたくて始めました。 雑多に幅広く。

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東京ドームに行けなかった

行ったら、素晴らしく、忘れられない日になったことは間違いない。 たった2人の彼らが15万人を沸かせている光景に涙することができたかもしれない。 しかし、私はそこ…

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2か月前
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魔法少女アブ

かねてより”鍵”をくれていた人たちに会ってきた。 あの人たちがプレゼントする”鍵”は、わたしのどこかにある”笑い”という装置を起動させる。 わたしがいつも抱く笑…

がみ
1年前
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○詳論文化人類学
方法論としての解釈や比較が行われる限り、認識論が失われることはない。しかし、文化相対主義に始まるように「他者」を西洋の知的伝統に還元しないという人類学の視点が失われつつある構築主義の潮流に対し、存在論的転回の出現は再解釈の余地を与えた。「真剣に受け止める」とは。

がみ
2年前

○キューバ
「非常期間」では、受け入れて反革命に転じ、富を得る者もいれば、理想とされた「新しい人」の精神を抱えながら苦悩し、「解決する」事に苦闘する人もいた。そういった人々は「ペナ」といった独特の負い目を感じつつも、日常を生きるためにあらゆる手段を講じざるを得ない。

がみ
2年前

○詳論文化人類学
博物館展示や初期の民族誌映画は、『文化を書く』によって客観性を批判され、映像の重要性が損なわれていった。しかし映像作品を「伝える手段」として捉えることで批判的に制作しながら、社会内外との関係までもを同時代的に表象することができる点において有効であり、活用される。

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2年前

○詳論文化人類学
自然人類学と文化人類学は今や、分化した時代から「再接合」の時代へとシフトしてきている。社会的な事象が要因で発生する「疾病」や、人ではなくヒトとしての宗教観(個人の認知が全体を作る)、人と動物の一元性といった科学の接合により有用性が担保される研究は増加している。

がみ
2年前

○詳論文化人類学
人類学は災害に対し、脆弱性という災害前後の人々の受動的な見方と、レジリエンスといった外部に対する能動的な反発を観察する。何をもって「被災者」であるかを科学や制度への反発や受容とともに考え、協働しながらも研究していくといった公共人類学の視座も必要だ。

がみ
2年前

○キューバ
欠点を受け入れ、革命を許すことが、革命後の非常期間と言う「今」を生きる人々に根付く友愛であり、恋愛なのである。彼らは革命の中では家族であり同志である。革命の外で革命を見るとき、そこに愛がある事を無意識の中に意識し、革命の中に戻るといった循環的な作用があるようである。

がみ
2年前

○詳論
近代西欧において常識化された主体/客体、人間/非人間などといった二元論や、人類学の潮流において関心が寄せられた言説的、象徴的な「意味」を解読する動きに対抗して、20世期後半には物質文化や「もの」の対称性やエージェント(行為の主体性)を考察する「存在論的展開」が活発化した。

がみ
2年前

○キューバ
革命当初に謳われた精神主義はやがて限界を迎え、物質の充足を約束するための制度化と、それに対する再反発といった形で往復し、矛盾を抱えていく。共産主義の恩恵を受けるべく、「統合される」事を受け入れる人が現れる。頭脳労働や教育が果たして上位のものなのか疑う必要がある。

がみ
2年前

○詳論文化人類学
「要素」と「要素間の関係」、変形、不変は構造主義の思考の上で重要な要素である。個人に内包し、個人を作り上げていく「他者」の存在を認めた上で、他者との関係の中で構造が確認される。「他者のための空洞」倫理もそれによって生じたひとつの動きととれる。

がみ
2年前

○詳論文化人類学
>>>フィールドワークにおける倫理を制度化するだけでなく、状況によって生じる他者の不利益や不快さを自身に問い直していくべきである。

がみ
2年前

○詳論文化人類学
マリノフスキーに端を発する人類学的実践のフィールドワークは客観性の点から批判され、一時は下火となった。しかし現在も仮説検証または発送のための手段として継続して紡がれており、多様な領域、方法で適用される。>>>

がみ
2年前

みんなで座れる椅子が欲しいけど

「ある程度の普遍と共通」を認めない人はいないだろう。 「自分以外の誰か」を固定しておくための拷問椅子は何脚だって欲しいものだ。 いつからその椅子を競売にかけよう…

がみ
2年前

○詳論文化人類学
通文化比較によって一般化される研究と、主観性を内包しているとの批判への対応として成立した解釈人類学は、民族誌記述の方法及び認識において影響を及ぼした。主観性や立場を内包しつつも「内省」的である記述が求められる。文化人類学は人の根源的な独自の領域を獲得していく。

がみ
2年前

○詳論文化人類学
民族誌とは、特定の集団に対して詳細に述べるものであるが、単なる調査報告ではなく、そこにあるアイデンティティや象徴を描くものである。民族誌から新たな理論が生まれることがあると同時に、民族誌を描く側も普遍的な理論を認めた上で一定の枠組みを持った記述を行う。

がみ
2年前

東京ドームに行けなかった

行ったら、素晴らしく、忘れられない日になったことは間違いない。

たった2人の彼らが15万人を沸かせている光景に涙することができたかもしれない。

しかし、私はそこに行かなかった。というよりも、行こうとしなかったし、行けなかった。

まずひとつ。私はもう、そのラジオを聴いていないからだ。2019年ごろそのラジオと運命的な出会いをした。新自由主義、競争、不自由、人見知り、、、あらゆる違和感に言葉を与

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魔法少女アブ

かねてより”鍵”をくれていた人たちに会ってきた。
あの人たちがプレゼントする”鍵”は、わたしのどこかにある”笑い”という装置を起動させる。

わたしがいつも抱く笑いの感情には、意識が存在しない。解釈だけが存在する。
伝えようとされる暴力をがんばって、がんばって汲み取って、いる。

あの人たちはそんな踏ん張りや改札を通るときみたいな緊張を与えたりしなかった

だから疲れたし、緊張した

あの人たちは

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○詳論文化人類学
方法論としての解釈や比較が行われる限り、認識論が失われることはない。しかし、文化相対主義に始まるように「他者」を西洋の知的伝統に還元しないという人類学の視点が失われつつある構築主義の潮流に対し、存在論的転回の出現は再解釈の余地を与えた。「真剣に受け止める」とは。

○キューバ
「非常期間」では、受け入れて反革命に転じ、富を得る者もいれば、理想とされた「新しい人」の精神を抱えながら苦悩し、「解決する」事に苦闘する人もいた。そういった人々は「ペナ」といった独特の負い目を感じつつも、日常を生きるためにあらゆる手段を講じざるを得ない。

○詳論文化人類学
博物館展示や初期の民族誌映画は、『文化を書く』によって客観性を批判され、映像の重要性が損なわれていった。しかし映像作品を「伝える手段」として捉えることで批判的に制作しながら、社会内外との関係までもを同時代的に表象することができる点において有効であり、活用される。

○詳論文化人類学
自然人類学と文化人類学は今や、分化した時代から「再接合」の時代へとシフトしてきている。社会的な事象が要因で発生する「疾病」や、人ではなくヒトとしての宗教観(個人の認知が全体を作る)、人と動物の一元性といった科学の接合により有用性が担保される研究は増加している。

○詳論文化人類学
人類学は災害に対し、脆弱性という災害前後の人々の受動的な見方と、レジリエンスといった外部に対する能動的な反発を観察する。何をもって「被災者」であるかを科学や制度への反発や受容とともに考え、協働しながらも研究していくといった公共人類学の視座も必要だ。

○キューバ
欠点を受け入れ、革命を許すことが、革命後の非常期間と言う「今」を生きる人々に根付く友愛であり、恋愛なのである。彼らは革命の中では家族であり同志である。革命の外で革命を見るとき、そこに愛がある事を無意識の中に意識し、革命の中に戻るといった循環的な作用があるようである。

○詳論
近代西欧において常識化された主体/客体、人間/非人間などといった二元論や、人類学の潮流において関心が寄せられた言説的、象徴的な「意味」を解読する動きに対抗して、20世期後半には物質文化や「もの」の対称性やエージェント(行為の主体性)を考察する「存在論的展開」が活発化した。

○キューバ
革命当初に謳われた精神主義はやがて限界を迎え、物質の充足を約束するための制度化と、それに対する再反発といった形で往復し、矛盾を抱えていく。共産主義の恩恵を受けるべく、「統合される」事を受け入れる人が現れる。頭脳労働や教育が果たして上位のものなのか疑う必要がある。

○詳論文化人類学
「要素」と「要素間の関係」、変形、不変は構造主義の思考の上で重要な要素である。個人に内包し、個人を作り上げていく「他者」の存在を認めた上で、他者との関係の中で構造が確認される。「他者のための空洞」倫理もそれによって生じたひとつの動きととれる。

○詳論文化人類学
>>>フィールドワークにおける倫理を制度化するだけでなく、状況によって生じる他者の不利益や不快さを自身に問い直していくべきである。

○詳論文化人類学
マリノフスキーに端を発する人類学的実践のフィールドワークは客観性の点から批判され、一時は下火となった。しかし現在も仮説検証または発送のための手段として継続して紡がれており、多様な領域、方法で適用される。>>>

みんなで座れる椅子が欲しいけど

「ある程度の普遍と共通」を認めない人はいないだろう。

「自分以外の誰か」を固定しておくための拷問椅子は何脚だって欲しいものだ。

いつからその椅子を競売にかけよう、シェアしてしまおう、そう思うのだろうか。

その途端、所有物だったはずの椅子はアウトプットされた情報になる。

情報は何故、氾濫が許されるのか。

皆が氾濫の中にノールックで手を伸ばせば、手に入るから。

自分と向き合わなくても良くな

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○詳論文化人類学
通文化比較によって一般化される研究と、主観性を内包しているとの批判への対応として成立した解釈人類学は、民族誌記述の方法及び認識において影響を及ぼした。主観性や立場を内包しつつも「内省」的である記述が求められる。文化人類学は人の根源的な独自の領域を獲得していく。

○詳論文化人類学
民族誌とは、特定の集団に対して詳細に述べるものであるが、単なる調査報告ではなく、そこにあるアイデンティティや象徴を描くものである。民族誌から新たな理論が生まれることがあると同時に、民族誌を描く側も普遍的な理論を認めた上で一定の枠組みを持った記述を行う。