木々の伐採と命の剥奪

 熱波が"世界"を襲う。国連が(決して全ての民衆が属するわけではない)"世界"に発したこの危機は、良くも悪くも生に対する状況を示している(https://www.un.org/en/climatechange/science/causes-effects-climate-change)。

 熱波に逆らうためには生をいかに保持していくべきだろうか。まさかエアコンではなかろう。この熱帯的昼夜においても否応なく自身が生きているという諸事実と向き合い続ける生について、考えなくてはならない。

これまで受け継いできた公園の緑を守っていくとともに、将来にわたり上質な緑の空間であり続けるために、下記の考え方のもとで樹木を保全します。

・樹木を避けて整備を実施します。
・移植が必要となる場合には樹木診断を行った上で公園内で移植します。

東京都建設局 2024年3月29日更新「都立日比谷公園再生整備計画に関するよくある質問」https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/jigyo/park/hibiyakouensaiseiseibi/faq.html

 上記はある公園の再開発に際して提示された各質問ーー実際にはこのような「よくある質問」も恣意的な選択によって形成されたに過ぎないのだろうがーーに対する行政側の回答の一部を抜粋したものである。「再生整備によって樹木は伐採されるのでしょうか」という問いに対して発されたこの回答は、開発や再開発に際してのひとつの”態度”として示唆的である。

 開発や再開発に際し、現在ある維持された形態や具体的生活を人々の手から奪い去る際の”態度”は、しばしば酷似している。それは常に、真に単一的である。上記の例では「守っていく」や「上質」が厳密に定義されないまま、「保全」を計画しているといった批判はできるだろう。開発の後に待っているのは、主語が予めひとつに限定されていながら実現される「上質」さでしかない。誰が「上質」であるとみなすかといった素朴な検討課題は棚上げされたまま進められる。ここ数十年で流通した「多様性」言説はこうした”態度”と肩を組んで駆動しており、反対や対抗をマイナス、あるいは”無”へと収斂させていくだろう。

 あるいは、ここにみられるような議論のすり替えも顕著にみられる。「移植」それ自体によって樹木の絶対数が変化しない、であるから開発は正当化されるという論理は、端的にいって通用しないと私は考えている。公園(あるいは公共空間)と生活が密接に結びつく場合において、今までそこにあった樹木が別の場所に移動する(しかも「樹木診断」なるものによって!)ということだけでも、何かに対する危うさを含んでいるはずである。ここでは「伐採」という明確な事実が、「移植」という論点へと横滑りしているのだ。

 開発の”態度”自体はそれとして慎重かつ入念に検討すべき問題系だろうが、やはりここで考えたいのは開発に際して表面化する生に関する問題だ。極端に言ってしまえば、木々の伐採を含む開発や再開発は、かけがえのない生から共同性の時空間、生活、そして命を剥奪するのではないかという点を指摘したい。

 ここで挙げたのはある公園をめぐる木々の伐採の問題である。しかし、我々の生が木々に寄りかかることによって担保されるような、力強くも脆さを持つものであることを前提として考えるならば(生とは本来何かに寄りかかりながらのんびりと維持していくようなものである気がする)、現に起こっている開発とは生が維持してきたものを破壊する力そのものとも言えるだろう。そしてこの力は、誰しも等しく与えられていながらも振るうことを一方的に許された暴力としての力であり、剥奪の対象となるのは生と共にあるべき命である。

 生命から命が奪われて「生/命」となるとき、生は現実としての「生活」を保持し続けることができなくなる。あるいは、木々に寄りかかりながら維持する「生活」が不可能になるとき、生が鼓動をやめてしまう可能性が浮上する。この両者はどちらも可逆的に起こりうる可能性があるし、実際に起こる。

 ここではその可能性と実際に発生する恐怖を記述するに留める。ここで「上からの」力に追随せず、「我々の」共同性に賭けようなどと「提言」することによる功罪ーー主にここには構造的暴力の忌避とネオリベとの結託という極めて複雑な課題があるーーについては慎重に検討する必要があると思うからだ。

 しかし少なくとも言えるのは、生の維持という根源的に重要な課題を、保守や留保を含む”平和”からではなく”対立”の中から積極的に提示していくことが何よりも重要だという点は強調したい。避けられない構造的暴力に対し、何らかのアクションが存在するということ、それ自体を肯定するという姿勢や実践が、最も純粋に生を肯定できると考えている。熱波があらゆる諸世界を覆ってしまうことが確定しようとしている今、熱波からいつでも逃げることのできる生だけでなく、立ち向かわなくてはならない生を、生を維持する力を肯定すべきである。


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