東京ドームに行けなかった
行ったら、素晴らしく、忘れられない日になったことは間違いない。
たった2人の彼らが15万人を沸かせている光景に涙することができたかもしれない。
しかし、私はそこに行かなかった。というよりも、行こうとしなかったし、行けなかった。
まずひとつ。私はもう、そのラジオを聴いていないからだ。2019年ごろそのラジオと運命的な出会いをした。新自由主義、競争、不自由、人見知り、、、あらゆる違和感に言葉を与え、心の奥に永遠の友達として君臨してくれたのが貴方だった。
だがもう、それを吸収する必要は無くなっていたし(理念としては不十分なほどに必要なのだが)、貴方も私と同じ分だけ進んでいた。それだけのことだ。
そしてふたつ。こう考えていたこともあって、私の中には少なからずのうしろめたさがあったと思う。
もうそこに居ない私の幻影を追いながら東京ドームの前で物販を見て、会場に入って、泣きながら帰るみたいなことは、あまりにも不自然で不誠実だとは思わないか。
そこにいる他の15万人と比べて言いたいわけではない。古参ぶりたいわけではない。しかし、私の中での絶対的で固体化した過去という幻が、そこに向かうことを許さなかった。
そして最後に。色々と御託を並べたが、結局は大好きだからというのが最もしっくりくる理由だろう。
私はそのラジオが大好きで、若林が大好きで、春日が大好きで、オードリーが大好きなんだ。
あの2019年や2020年という永遠と、自室の無限の中で、終わることがないラジオをずっと聴いていたかった。そうして外界とかから遮断されて、同じ価値観という海にずっと浮かんでいたかった。
でも、進むんだ。どんなに苦しくても、辛くても、血の通った仲間はいる。そう教えてくれたじゃないか。
実際、自然に私はそうしていたし、若林は私の何倍ものスピードで自己を自由な思考をもって進めていた。
だから私は東京ドームに行けなかったんだ。
今、この文章を書いたということは、行けなかったことへの後悔があるということだろう。
ただ同時に、この文章を書きながら、もし行っていたらあのラジオを喰らい尽くして消費しまくり、勝手に重ねて涙してしまうような、かといって最近は進んでしまっているような独りよがりな人間になっていたかもしれない。そしてそれに絶望していたかもしれない。
だから、今はこれでいい。
でも明日には一歩進んでいたい。
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