みんなで座れる椅子が欲しいけど

「ある程度の普遍と共通」を認めない人はいないだろう。

「自分以外の誰か」を固定しておくための拷問椅子は何脚だって欲しいものだ。


いつからその椅子を競売にかけよう、シェアしてしまおう、そう思うのだろうか。

その途端、所有物だったはずの椅子はアウトプットされた情報になる。


情報は何故、氾濫が許されるのか。

皆が氾濫の中にノールックで手を伸ばせば、手に入るから。

自分と向き合わなくても良くなるから。


椅子に固定された「自分以外の誰か」よりは「正しい」「優れている」「恵まれている」「嬉しい」「楽しい」「幸せだ」...



「でも孤独だ」



椅子なんて発明、誰が考えたんだろう。

みんな座れる畳はあんなにいい匂いなのに。

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