過去を消費するシューカツ

企業に勤めるために行われる就職活動。
はじめは「勤めるため」というのが動機として真っ当であったように思われる。

妹尾麻美著『就活の社会学』でははじめに、就活の歴史的背景について言及されている。そして20世紀末から21世紀のわれわれを取り巻く“シューカツ”は、大学生に「やりたいこと」を問うようになっていったのだと説明される。

特に文系学生が行うシューカツにおいて顕著なのが、数ある職種、業界から”御社“を志望するだけの真っ当な理由が必要とされることだ。シューカツ生はその志望理由と「やりたいこと」の結節点が御社であるというように語るようになっていく。

私はこの論点の中にもう一つ、過去からの視点を導入したい。
上記で挙げた志望動機と「やりたいこと」は明らかに、未来に対する指向性の問題だろう。しかしながらシューカツにおいては、人事ないし採用担当者が選ぶに値する(マッチする、といった言葉で責任を負わない姿勢が示されることが往々にしてある)人物を判断するために「自己分析」と称し、過去を掘り下げられることがあるのだ。

そこでは、過去のエピソードそのものにおける成果が問われることはなく、むしろそのエピソード内でどういった行動をとったか、いかなる立場から問題解決に至ったかなど、「いかに」が問われることが多いのだ。

私が最も忌むべきはこの過去のエピソードを語っている際に訪れる自分や他人への「裏切り感」だと考えている。

例えば私が課外活動でのチームスポーツにおける経験を過去のエピソードとして話す場合、そこでの役割を、あたかも自分が頑張ったこととして話さなくてはならない。嘘をつかずにその時のことをそのまま話したとしても、虚勢を張って頑張ってきたかのように話したとしても、その時私を襲うのは紛れもない裏切りの感情だ。なぜなら私は、シューカツで消費するために頑張ってきた訳ではないからだ。

また、「あの時の自分はこれを頑張れたかもしれない」と引っ張り出してくる時にも同様の感情は襲ってくる。
引っ張り出したくもないしまっておきたい思い出というのもあるだろう。その行為をしたことで、心の中の引き出しを汚してしまうのが堪らなく苦痛なのだ。



と、ここまで書いてから2ヶ月ほど経っただろうか。私はシューカツ生という立場から晴れて開放された。

忌むべき「裏切り感」から私は解き放たれただろうか?かつての想い出は私の手に再び還ってきただろうか?

残念ながら今も、私の過去はシューカツ市場という虚構の中を漂っている。
しかし同時に、「使う」ことができ、叶えることのできた道具としての過去を誇ってしまってもいる。

実は、私の抱えていたこの自意識は、至極真っ当かつ肯定的な事実なのかもしれない。過去は使われるべくして生まれ落ち、虚空へと解き放たれるべきものなのではなかろうか。
それは消費という語で集約可能にはならない、一種のモノとして捉えるべきなのではないか。

過去はただそこに在るのみである。私に語りかけるわけでもないし、行為を規定するとは言い切れない。

しかし過去には眼がついている。
過去はずっとこちらを見ている。

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