「考えたくない」のための小括


私はノートを隅に放り投げ、祈った時の手で本を取る。

世界と繋がることをずっと待ち望んでいた。




考えたくない、という時が訪れる。

それは何かについて考え続けている時にふと襲ってくる。この「考え続けている時」に理性を導入して操作するなんて離れ業はできた試しがないし、したくない。それは論理や感情をマッチョイズムで埋め尽くし、生きる事に非人間的な機械=力(power)を導入することに他ならない。そう強く思う。

すなわち、考えたくない時、考えたくないのだ。

私は、「考える」を極めて社会的な行為を指すものだとみなしている。

ある共同体について考え、ある事件について考え、ある食事について考え、ある自分自身について考える。考える時、事物や人は思いもよらぬ方向から私自身に介入してくる。私と関わりを持ったものは全て、言葉となって私に語りかけてくる。それは夢の中だったり、飲み会の帰りだったりする。

貴方がくれる言葉には呪縛があり、開放的な対話がある。

人が文脈から引き剥がされ、都市の幾何学的な建造物になってしまう世界では「考える」は剥奪されている。その世界は日常の至る所に潜んでいるし、日常を蝕んでくることさえある。
私が就職活動を辞める直前、新宿歌舞伎町に突如出現した「歌舞伎町タワー」なるものへと変貌したも同然だった。それも2回もあった。

そこはあらゆる自意識が、複数性が、生活が不在の気楽な世界でもあった。

「考える」を辞める世界は、簡単だった。

以上の両義性の間で揺れるという事が、生きる事なんだとは到底思えない。どちらも経験し、往復する中で、私は「考える」世界に軸足を置いて生きる事をずっと前から知っている。そういうテーゼを信じていることを知っている。

そうであるならば、その世界であらゆる力(体力、権力、重力、暴力)の行使としてのマッチョイズムに有無を言わせない作業方法を確立したいと思う。
おそらくそれは、書くことだ。ただそれだけによって私の世界の崩壊は免れる。

「考える」に対し「書く」とは、社会性とともに孤独をもたらす事ができる創造性だ。
革新的なアドバイスを与える者も、誹謗中傷アンチだろうともこの孤独に足を踏み入れる事はできない。他者との関わりの中から紡ぎ直した有限な言葉が、唯一の手掛かりになる。

孤独は多分、文脈が剥奪された力の世界においては不十分な概念であり、流行する事はないだろう。そもそも複数性が不在であるが故に社会を、他者を、あらゆる内在の外部を想像する事ができないのだから。つまり「書く」は、「考える」営みの世界でしか息をする事ができない。「考える」は「書く」を包含しうる行為であり、どちらも創造/想像性である。


私は本を閉じ、これから当分開かないことを宣誓して、ノートに向かう。

他の誰でもない貴方がくれた「考える」を一旦、孤独に持ち帰るために。

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