魔法少女アブ

かねてより”鍵”をくれていた人たちに会ってきた。
あの人たちがプレゼントする”鍵”は、わたしのどこかにある”笑い”という装置を起動させる。

わたしがいつも抱く笑いの感情には、意識が存在しない。解釈だけが存在する。
伝えようとされる暴力をがんばって、がんばって汲み取って、いる。


あの人たちはそんな踏ん張りや改札を通るときみたいな緊張を与えたりしなかった

だから疲れたし、緊張した


あの人たちは想像のスクリーンで神話になっていた神だったけれども、小さかった。大きくある必要のないという主張が、言葉ではなく眼としてフィクションを破いた。あの”笑い”は結局そういうものだったのかと、明日気付けるだろうか。
身体性には反逆=尖りがあり、実はことばとしての笑いは”笑い”ではなかったのではないかという、「言説」だ。


それと、内容について。

コントとして、漫才として(ぷよぷよとして)。

あれは必ず、「筋書き、演劇が達成されないという演劇」という入れ子によって成立する。

彼らのそれは、何重にもなる。
進歩ではなくて、ディストピアだ。

一貫したドラマトゥルギーでは終演しえないものを作りたい。
限りなく”自然”に近いということ。よこしまが無いということ。


あげたいもの平らに置いてるだけなのは しわしわ、雫、シュークリームの藍 /がみ




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