「実証」の間隙を縫う

私がこれまで学んできたことを踏まえるならば、「実証主義」あるいは「経験主義」とは基本的に悪であるという立場をとらざるを得ない。

実証を基盤に置きながら対象を分析し、その妥当性を定量的な結果から導き出すといった手法はこれまで、人類の進歩や進化という語と共に多用されてきた。

私はなぜ今このことと対峙する必要があるのか。
それは、これからまさにその実証主義的判断に基づいて働いていく可能性が浮上したからである。

2010年代以降から日本では、データに基づいたビジネス上の分析や判断、提案が行われてきたとされている。データとはさまざまであるが、特に小売や物量業における顧客や商品、時間、空間など可能な限りの変数に与えられる数字だとしよう。統計学の視点からするとだいぶおかしなこと言ってそうだけど。

何はともあれ重要なのは数字だ。数字に基づいて未来予測をし、提案や改善を行う。私はまさに、こうした仕事に向かおうとしている。

実証主義にはさまざまな論理的批判があろうが、感覚的に最も重要な点はそれが攻撃性を伴っているという点であると私は考える。

私が大量のデータを分析できるようになり、そうして浮かび上がってきた課題点をクライアントに提示しようとする場面を想像しよう。
まず、この時点で重要なポイントは浮かび上がってきた数字を私は極めて主観的な判断によって取捨選択しているということだ。この点はいかに客観的な指標を用いようと、私自身の人生に刻み込まれたあらゆるコンテキストがそれを許さないため「実証」不可能であると私は考えている。

次に、実際に提案するフェーズだ。
私はあたかも客観的に獲得できたとみなしうるデータを提示し、「〇〇が課題なので〜〜を改善しましょう」と提案する。これは私ではなくデータが言っていることなので、と暗に付け加えながら。

このプロセスは極めて攻撃的である。実証の罠に絡め取られたクライアントは太刀打ちできない。こうした場面で起こりうる閉塞は、実証主義が持つ危険性と酷似してはいまいか。というか、「データ」とは実証主義の産物であり実証主義を基盤とした考えといえまいか。

私は以上の危険性を加味した上で、データを使って働きたい。このビジネスの間隙を見つけに行きたいのである。

どこに見つけるかは案外容易だと考えている。
例えば、クライアントに提案する場面。
私はデータを用いて提案することが攻撃的だと考えている。しかし、この攻撃性はコミュニケーション、言葉、信用、様々な相互行為によって覆うことができる。
あとはこれを如何にして行うか、これである。

今の時点で少なくとも言えることは、この部分だけは客観の皮を被る必要はない。むしろ、主観で語り、紡いでこそである。
私が私に対して悪だと決めた以上、これから先は当分このこととの格闘に労を尽くすのだろう。しかしこのことは、私がビジネスマンである以上に他者と簡単に切れない関係を結ぶ人間として取り組まなくてはならない仕事である。

あとのことは来年の私に任せるとして、実証では到底辿り着けない世界へと旅に出よう。
人間の可能性に限りはないのだから。

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