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人と文面で話すときには帰属意識を捨てろ②

オンライン上のコミュニケーション、特に文面のやり取りにおいては感情の発露について色々な捉え方があり、一筋縄ではいかないねみたいなことを考えています。今回はその最後になるでしょうか。

ヘッダ写真にAnycolor社二次創作ガイドライン基づいた素材とフリー素材をお借りしています。

ヘッダ用に素材をお借りしていることからも伝わるかも知れませんが、考える切っ掛けは同社所属のYouTuberがJUDGEEYESという現代劇風RPGを実況していた際の話でした。

メッセージアプリで(笑)とか笑みたいな差異が人によってあって、さらに相手によって使い分けてるよね、みたいな内容です。

そして前回は、「社内で誰かに助けてもらった場合にどんなお礼の仕方をするか?そこでどのように感情を発露させるか?」について考えました。上記メッセージアプリのように、文面でのやりとりでどのように我々は感情を発露させるだろうか?

ならびに、極めて冷静に平易に文面のやり取りをしていた場において、初めて自分の感情を発露させるという行為には何らかのエネルギーや覚悟が必要であるという仮定が得られました。

相手に感情を発露させる時「誤解されたくない」という感情が無意識下で付随する

と同時に、人間同士が会話する場合の笑う表現は「ははは」で済むのに、文面ではははと書いたら途端に意味不明な人になってしまうという意味不明な価値観が存在します。この現象は海外ではそんなにないのではないでしょうか?

太郎「この前痴漢にあったんだ」
花子「ぎゃはは

前後を書いていないのでなんとも取りづらいかも知れませんが、この会話は花子が太郎が言っていることをなにかの一発ギャグかなにかだと思い、合わせて笑ってあげているとも捉えられますが、心から笑っている感じが何故かしません。むしろ乾いた笑いに見える。

実際に2人が対面して、

太郎「さすがのこの俺の美貌が性別を越えちまってよ~電車で尻まさぐられまくったわ」
花子「ぎゃっはっはありえねー!」

とか、仮に花子が太郎に敵対感情みたいなものを抱いておらず、彼のパーソナリティを熟知しているのであれば太郎の話をギャグと捉え、笑ってあげるかも知れない。

後者では口語を意識して書いたため、些かのニュアンス差こそありますが、そこで使っている単語は両者とも同じ「ぎゃはは」であるにも関わらず、真実味───────その感情は本心かどうかについての───────のレベルについての尺度が違うように受け止められてしまう。これは視覚的に自動的に判断されていますね。つまり無意識でそのように認識している。

このように文面では対面との受け止められ方の差異においてえげつないほどの開きが生まれる可能性がとても高い。だからこそ簡単に感情を発露させるわけにはいかないという土壌が現代社会にある。

前段落と今段落における事情から、「『文面で感情を相手に伝える』って、乗り越えるべき壁が生まれやすい・必要なエネルギーの絶対量が多そう」ということがわかります。ぼくらは感情を発露させることについて、かなり繊細な気の遣い方をして生きてきたのかも知れない。

笑う表現には簡略化が図られたという成り立ちを持つものもある

「w」を例に出します。

その成り立ちは「両手をせわしなく扱い、かつ文字も早急に打ち込むことが必要なネットゲーム」内で、ボタン一つで笑っている感情を表現できるという手軽さから「笑う」→「warau」→「w」となったというもの。

wは、感情の高ぶりに応じて、つまりその笑っている感情がものすごい高いことを表現するためにwwwwwwwwwwwwと重ねての利用もできる。このような応用、副次的効果も生む結果となったこと、および一連の使い方については、物心ついたばかりの子供でもそこらへんでインターネットに接続していれば自ずと解るかも知れません。

ただ「自ずとわかる」といってもそもそも「w」が笑っていることを示していることを知らなければ「一体何でこの人達は語尾にアルファベットを大量につなげているんだろう」となってしまうかも知れません。ちょっと異星人たちが会議でもしているのかと思われてもおかしくないかも知れない。

「笑うという感情表現を簡略化」して発露させるためにwが生まれた、つまり「『俺いま笑ってるよ』を言いやすくした・ハードルを下げた」のに、別の理由で使いづらくなってしまっている。

やっぱりここいら辺にwを使う上での参入障壁の高さ、心理的ハードルの高さの原因がありそうですね。wが笑っていることだと知っている層を相手にしたときにしか利用できない単語だし、単純に一般的でなさすぎる・俗物的すぎるのかも知れない。

さらに、集中しなければならない「ネトゲ」という作業を最優先させるために感情的ハードルなんて後回しでいいという意識が大衆の中に生まれたこともwの成り立ちに大きく貢献しているといえる。ビジネスシーンとの違いは時間的成約です。ビジネスシーンならメールのやりとりが基本だろうから、「時間を使って考えられた文面」が送られてくるに決まっているという不文律がある。そこで相手を思いやった表現ができなければ蹴落とされる。だからwは使いづらい。

上記メール例の文に「Bさんが助けてくれて大草原設置完了済みwwwwwwwwwwww」とか書いたらガチ目に気が狂ったかと思われそうですね。「ああ、そこまで切羽詰まってたんだな、心の氷が一気に溶けて安堵したんだな」と思ってくれるBさんが存在する可能性はあまりにも低いのではないだろうか。

自分が笑っていることを伝えると帰属意識がつきまとう

「w」という表現の成り立ちからもわかるとおり、笑うためにどの表現を使うかについては、自分がどのようなインターネットコミュニケーションを使う土壌にいる/いたかどうかに左右される。

つまり「文面で笑うことを表現する」ということは、「わたくしこういうところの出身でして……」と、名刺を出すようなものと言えるかも知れない。お里が知れる。

前回、前々回と出した上記の例はビジネスシーンであるため、生真面目な場そんなもの表明してどうする、ということですね。Bさんと出会ったのがSNSにおけるゲーム参加者募集とかだったらまだ……悪い例として挙げたパターンも通用するのかも知れない。

となると「『TPOをわきまえた人間である』と思われたいのであれば、自分が笑っていることをオンライン上で表明する際には気をつけろ」という一種の教訓がそこにはあるとも言えます。別にネトゲで遊んでいることすなわち品が悪いとはぼくは思いませんが、「即座にそのように捉えてしまう人がいるかもしれない」というリスクを考えるのであれば、笑う表現について安易な判断はしないということになる。

当該リスクによって自分という人間がよくわからん尺度で推し量られてしまうことを何らかの機会損失と捉えるのであれば、笑うことひとつにすらド慎重になる。あるいはこれが空間的なリテラシーというものなのかも知れません。

相手の感情なんて考えずに、サクッと機械的に選択肢を選んだって許されるゲーム(実況)でこれだけ考えられたことも、JUDGEEYESが多様性に富んだRPGであったからだろうしそのような実況であったからでしょう。世にゲームが途絶えないことを……

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