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ジョーカーを見るためにカモンカモンを先に見る②「生きていて良いことなんてあるわけねえだろ」


インタビューがドキュメント

この映画はドキュメンタリーとしても楽しめる。その理由はところどころ挿入されるホアキンの役柄上の職の業である子供へのインタビューがどうみてもぶっつけ本番……といいますか演技じゃないあたりにある。

ホアキンが一応台本という下地はあるものの、なんらかの子供にインタビューするレイディオのディレクターとなり、目的を完遂するわけだ。この部分はこの映画と切り離してさえ楽しめるガチコンテンツです。それぞれの子供はガチで思っていることを質問に対して答えてくれる。しかもそれは映画が終わり、スタッフロールが終わるまで流れていく。

だから別にこのガキ的演技がやたら得意な俳優のガキに共感できなくても見る価値が多分にあるのです。ぼくは最後まで「あ、このインタビューシーンつまりホアキンが日常の職をやっているシーンとは、演技とかで進行してはいないものだ」と気づかなかった。演技な必要ねえよな、と思って整合性をエンドロール見ながら確かめてたら、あ!!!!!!!!と思ったわけだ。

星の子どもは何を思うのだろう?

擬似的子育て生活に参ったホアキンが途中途中でいろんな読み物に触れることで、自動的に劇中に引用があふれることがある。

特に別の星からきた生命体が地球に憧れるあまり地球の人間の子供となり生まれ変わる話(「星の子供(star child)」クレア a ニヴォラ著)は思い出深い。

基本的にこの話を見ている段階で視聴者のバックボーンとして

子育て=子供=最悪
人生=最悪
未来=最悪

という概念が念頭にあることは否めない。だってガキがいなければホアキンの人生別にいつもどおりにラジオディレクタをやってりゃ良かったし、その……ガキは自閉症一歩寸前(ものすごくうるさくて~といい、なぜメリケンの映画に出てくるガキは自閉症ばかりなのだろう?)の生活がより暗澹たる物となってしまうのかも知れないが……ホアキン目線では別に……である。

つまりこれら本来ガキの時分にとってはきらきらして見えてるような物事が全部ネガティブ成分でしかないという事実はもう当たり前のように俺らの目の前に横たわってはいるけど、じゃあどうしますかね……みたいなことを一歩ずつ考えるしかないか、という構造になっている。なっているといいますか、そこまできたらそういう映画創るしかないっしょ……みたいな考え方もできる。すんげえ穿った見方ですけど……

星のこどもとは暗喩に見せかけて直喩だ。他の星から地球を羨む生命体がいて、さらに何かしらの超越的な存在がいいよいいよOK、じゃ地球の子供として生まれ変わってや~~~~~~と伝え、愚直にその後の行動をシミュレートする。

そこでは普通の人間の子供と同じような様々な葛藤とか知識の押し寄せとか結局人生とは空虚で悲しく豊かで楽しいみたいな経験をしまっせ、きみ自身もガキを持つかもね、とかまでシミュレートされる。つまり別の星の子が憧れ……とか言わずとも普通にそこらの人間のガキが味わう一生の体験と寸分違わないのだ。なぜ他星という架空の例にした?

カモンカモンとはどのような意味なのかも映画見てれば絶対わかる。それは進め進めという意味であり、なぜそう読み取れるのかを知ることはこの映画を見る歓びでもあるため細かく説明はしない。

ガキはホアキンの目を引くために、といいますかもう構ってちゃんの権利でもあると勘違いしているのか(構ってちゃんをしていい権利なんてどのような生物も生涯に渡り持ち合わせることはない)奇行をしまくる。

これもぼくが当該ガッキを5歳ぐれえだろうなと思った理由のひとつであり、そのやり口がこすいわけです。やれホアキンがガッキを保護してやるために職の場につれてこうとしたら(連れてく許可をまずガッキの母であるホアキンの妹に得る時点でまたくそ面倒である。NYみてえな刺激的なとこに自閉症寸前の自分のガキを連れてきたくないんだってさ。じゃあどうすんだよホアキンが無職になってもいいのか、と。ガッキが誰もいない家で好き放題暮らし、黒焦げとかになって死んでOKなのか?と)タクシーの中で仮病使いやがって寄ったダイナーのトイレに閉じこもる。こいつら親子揃ってホアキンの社会的地位を失おうと必死かよ?

ガッキの理不尽を許してやれないのは、その職の業をやり、社会的信頼を勝ち取りながらその業を延々と続けねばならないのにその信頼を消し飛ばす行為に加担しようとしてくるところにある。さも自分に、第三者の社会的信頼を消し飛ばす権利でもあるかと思っているあたりにである。

その背景には社会的信頼を恒久的に勝ち取り続けねばその職の業が永続的に続かない、という体力のない情けない社会を人類が形成してしまったという汚点、原因がある。ガキが邪魔して来たんスよ、と言ってその社会的地位が剥奪されない世でなければ誰もガキをかわいがってはあげられはしないのだ。

ガキとは、「お願いだから僕を構ってください」的最低限の礼儀礼節・マナー・オブ・コミュニケーションという正当な手段すら踏めずに、職の業に赴くホアキンがその費用を支払ったハイヤーを止めさせ、病気であると嘘をつきホアキンを置いてダイナーの便所に閉じこもるようなことをして社会的地位のある者(その地位とは、別に誇らしいものであるべきでは決してない。勲章が寄越されるようなものでなくたって、勲章が寄越されるような地位と全く同じ地位だ)の社会的信頼を脅かすことになんのためらいもないのだ。

このようにカモンカモンとは、ガキと社会的信頼の歪みについてぼくらに教えてくれ、ぼくみたいなやつはガキに近づいてはならないという教えを含む示唆に富んだ映画なのだった。

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