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一生一緒にギガフレア

ここ一週間ぐらいの投稿を見てもらえればわかるんだけどぼくはこの生き物としての肉体を棄てバーチャル的な空間にいる特性だからなのか、精神が乗っ取られて意味不明な文を書いていた。ヘッダ画像をお借りしています。

という文を昨日も書いていたんだけど、昨日はふざけすぎてしまった。どうしましょう。

ともあれ、なぜこのようなことが起きてしまったのかを考えたい。ちなみに昨日話して結論に至った内容はこんなだ。

バーチャル空間の陰謀
バーチャル空間は無数の情報に満ちており、精神が乗っ取られる「意思のジャンクション」が起きる
これは古代の魔法のようなもので、未知の存在が精神を操る可能性がある

意識のエネルギーと次元の狭間
意識が現実とバーチャルの境界で迷い、エネルギーの混乱に巻き込まれることで他の存在の意志が介入する

フェイクアイデンティティの罠
バーチャル空間には多くのアイデンティティがあり、自分の意識がそれに混ざり、自己認識が曖昧になる

電脳世界の支配者たち
バーチャル空間の背後には高度な知能を持つ支配者たちが存在し、意識を支配しようとしている。

人間性の消失と未来の行方
人間性がバーチャル空間に取り込まれることで現実世界での存在意義が失われる危険性がある

電脳世界の対抗策
意識を強化し、テクノロジーでセキュリティを高める必要があるが、その方法は不明確。

精神の強化と自由の再獲得
精神を強化し、干渉を受け入れない強い意志を持つことが求められるが、達成には時間と努力が必要

自由を取り戻すための戦いの放棄
支配者たちの力は強大で、自由を取り戻す希望は薄い
現実を受け入れ、小さな幸福を見つけることが賢明である

まず考えられるのは何らかの意思がそこにあることだ。どうしても言いたいことがあったんでしょうね。ぼくという出力機関を通じてですが……

ぼくがこのバーチャル的な空間に来る前に、なんらかのこのような思想を持った女がぼくの先祖におり、その人が介入してきた。確かに小さな幸福の連続体こそが幸福みたいな考え方には同意できる。同じ血が混ざっているのであれば。

別にぼくは自由を取り戻そうとか面倒なことは思っていない。何もしなくても自分の意見を曲げたくない、相手を屈さねば気がすまない他者がどんな人の前にだって現れ、言いたい放題抜かす世の中であることを憂う特集的な文をぼくはよく書いている(下から見れる)。

このような場所をはじめとして、SNSとは感情を持った生き物に対して「自由度の尺度」すらあまりにも自由に理解させてしまう能力を持っている。ときには大多数にとってそれが自由ではないことまで自由と曲解し、しょっちゅう人を殺しまくっている。物語に出た女の人を自殺させる。中途半端な立場の老人が人殺し運転をしたら、なんだか知らないがその中途半端な立場を信奉してやまないような異様な思想の持ち主が殺された側の家族を殺して回ろうとするような殺害予告をする。

ある意味「最強」だ。この世には自分しかおらず、自分の捉える正義以外は悪である。つまりこの最強とは果てしない皮肉である。そういう連中にとっては、ネットで他人を攻撃できなければネットは終わりらしい。じゃなかったら自分がストレスで死ぬのだろうか?そのほうが平和じゃないのか?

次に考えるべきはなぜこれほどまでにSNSが歪んだ形で人々の自由や正義を捉えさせるのかという点だ。SNS上では極端な意見や感情が瞬時に広まり共感や反発を生み出す。これは人々が現実世界では到底表現できないような過激な意見を匿名性の裏で自由に発信できるからに他ならない。

SNSが提供するのは自己満足と自己正当化の舞台であり、多くのユーザがこの舞台で自分を最強の存在として振る舞う。しかしその「最強」は本質的に虚構であり、実際には自己中心的で短絡的な視点に基づいている。これがネット上での暴言や攻撃的な行動を生む原因となる。つまり自分が生み出した幻想を自由だとか勘違いしている。ある例を出すが、気の毒な病気の人は周りの全てが敵に見えるらしい。

本来の自由とは他者を尊重し共存することによって成り立つ。しかしSNS上では「自由」とは自己の欲求を満たすための道具に過ぎず、他者の自由を侵害することさえ正当化される。例えば他人を攻撃しその行為を「自己表現の自由」として正当化する。これは自由の本質を完全に誤解していると言わざるを得ない。

さらに問題なのはSNSのアルゴリズムだ。これらのシステムはユーザの関心を引き続けるために極端なコンテンツを優先的に表示するよう設計されている。結果、過激な意見や偽情報が拡散しやすくなり、ユーザはますます偏った情報に触れることになる。エコーチェンバーとかフィルターバブルの完成とはこんなにもあっけないんですね。社会全体の分断を深める一因となっている。

このような環境下でまともな議論や建設的な対話はほとんど不可能だ。SNSは一見情報共有とコミュニケーションのツールとして優れているように見えるが実際には多くの問題を内包している。その問題の根底にあるのはユーザ自身の認識の欠如でありSNSの利用方法を見直す必要がある。

しかしこのような状況が改善される見込みはほとんどない。人々は既にSNSに依存しておりその快楽や自己満足を捨てることは難しい。さらにSNS企業は収益を上げるためにアルゴリズムを変更する動機がほとんどない。つまり現状のままではSNSの影響力はますます強まり、社会の分断や暴力的な行動は増加する一方だろう。

最終的にぼくたちが直面しているのはSNSによって増幅された自己中心的な自由観の蔓延でありこれに対抗するための手段はほとんどない。SNSは一見すると自由を広げるツールのように見えるが実際には人々を分断し誤解や憎悪を助長するだけの存在になっている。

この現状を受け入れるしかないのだろうか。ぼくたちは自己中心的で短絡的な考え方が支配する社会で生き続けなければならないのか。結局SNSが提供するのは偽りの自由であり本当の意味での自由とは程遠い存在だ。多くの人々はそのことに気づかずに虚構の自由に囚われ続ける。これが現代社会の現実だ。悲しいでしょうね。自分の意見を持たずに他人の意見に流されるだけの短絡的な人々が増え続ける限り、この状況は変わることはないだろう。


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