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ぼくらはパンデミックを愛せるか?

新型コロナウイルス感染症が世界中に広がり、人々は自宅に閉じこもり、社会生活が一時的に停止した時期を経験しました。このパンデミックを箱庭ゲームとして再現する試みがある。


ヘビサイドクリエイションの新作『東京珈琲パンデチカ』

このゲームは2020年のコロナ禍の東京を舞台に、カフェのマスターとして様々なお客さんと交流しながら過ごすという設定です。

このゲームのリリースに対してぼくは強い共鳴を覚えると同時に、パンデミックという非常事態をエンターテインメントとして「消化」「消費」できるという人間の末恐ろしさを感じる。

1. ゲームと現実の境界

箱庭ゲームは現実の出来事、どころか未実現の想像さえをも仮想空間で再現する。この点で、ゲームは教育的価値や体験の疑似化を見せる。

その一方で現実の痛みや苦しみをエンターテインメントとして消費する倫理的な問題を含んでいる、と無理やり突っ込もうと思えば突っ込めたりするのだろう。ぼくは全くそのようなことは思わない上に、そのような考えは邪悪であると真っ向から否定する。存在意義を否定する。

現実のパンデミックをゲームとして再現することは、その深刻さを軽視することにつながる可能性がある。地震を茶化した連中が地震で死ぬようなものだろうか。

例えば『東京珈琲パンデチカ』はコロナ禍の切迫感や社会の変化をノスタルジーとして体験させるゲームです。が、この体験がどのように受け取られるかはわからない。ゲームが持つ仮想性と現実の厳しさとのバランスをどう保つかが問われる……が、割とそんなことはどうでもいい。

2. 人間の強欲さとエンターテインメントの関係

人間は娯楽を求める生き物であり、時にはその娯楽のために倫理的な境界を越えることがあります。パンデミックという非常事態をエンターテインメントに変えることは、人間の強欲さを象徴している。これがエンターテインメント業界における一線を越える行為であるのか、それとも新たな形の表現として受け入れられるべきなのか?(上記のように、「別にいい」と思う)

『東京珈琲パンデチカ』のようなゲームは、プレイヤーに過去の危機を再体験させる娯楽としてリリースすることで、人間の欲望を満たすと同時にその状況を消費する行為としての側面を持っています。これが果たして適切なエンターテインメントの形なのか疑問を持つ「人もいる」だろう。それでいい。自由闊達な意見が出てくる社会ほど風通し良く息苦しくないものはないのだから。

3. ゲームの教育的価値

一方で箱庭ゲームは教育的な価値を持つ。パンデミックの状況を仮想的に体験することで、危機管理の重要性や感染症の広がり方について学べる……かどうかは別にどうでもいいんだが、有利な面はアピールすべきだろう。このような教育的試行は、実際の危機に対する理解を深める手段として評価されるべきだ。

『東京珈琲パンデチカ』も、プレイヤーがコロナ禍における人々の心理や行動を理解する意味を持つでしょうね。ゲーム内で様々なキャラクターと交流し、彼らの悩みや困難を通じて、パンデミックの影響を身近に感じる……まさに原点回帰。あれほど誰もが忌み嫌ったあの状態を「懐かしい」とこそ思う。

3.5. デジタル社会における倫理観の変容

デジタル技術の進化とともに倫理観も変容していく。

現実の苦しみをデジタル化することで人々はその状況を理解し共感する機会を得る。しかしそれが過度に消費されるとどうなるだろう。現実とのギャップが広がり、問題の本質が見えなくなる危険性がある?

『東京珈琲パンデチカ』のようなゲームが登場することは、デジタル社会における倫理観の変化を反映して……いるのだろうか?仮想空間での体験が現実の問題にどのように影響を与えるかを慎重に見守ってもいいんだろうか。

5. 社会的変化とデジタルエンターテインメント

コロナ禍は、社会的な距離の取り方やコミュニケーションの方法に変化をもたらした。

デジタルエンターテインメントは、その中で新たな役割を果たしました。『東京珈琲パンデチカ』のようなゲームは、コロナ禍の中で失われた人間関係やコミュニケーションを仮想的に再現することで、プレイヤーに新たな形の交流を想起させるでしょうね。

デジタルコミュニケーションのちからをぼくらはもう一度思い出していい。何も隠すことはないが、ぼくがここにアカウントを造ったのもその頃だった。

6. ノスタルジーと現実の再構築

ノスタルジーは過去の出来事を美化して思い出す感情。

『東京珈琲パンデチカ』は、コロナ禍という過去の出来事をノスタルジーとして再構築することで、プレイヤーに対してその時期を振り返る機会を与える。この再構築は現実の厳しさを和らげ、過去の経験を再評価する手段として機能します。

7. ゲームの心理的効果

ゲームはプレイヤーの心理に大きな影響を与えることがあります。『東京珈琲パンデチカ』はコロナ禍じゃなくなったのにぼくらの身に降りかかる不安や恐怖を和らげる手段として機能します。いつの間にかコロナ下のほうがファンタジーになっている。なんて恐ろしいことなんだ……プレイヤーはゲーム内でコーヒーを淹れながら、お客さんとの会話を通じて安心感を得ることができます。現実のストレスをコロナで軽減する……

8. 技術と文化の融合

デジタル技術と文化の融合は現代社会においてさんざん議論中である。

『東京珈琲パンデチカ』は、デジタル技術を駆使してコロナ禍の文化的背景を再現することで、新たな形のエンターテインメントをとなる。技術と文化がどのように共存し、相互に影響を与えるかを示す良い例なんでしょうね。

結論1: 新しい交流の形

『東京珈琲パンデチカ』は新しい形の交流を提供する。コロナ禍の影響を受けた社会に新たな視点を思い起こさせる。デジタルエンターテインメントが持つ力を最大限に活用することで、人々の心のつながりを強化し、新しいコミュニケーションの形を模索できるようになる。

結論2: ノスタルジーと再評価

ノスタルジーを通じて過去を再評価することはなんだかしらんけど社会の成長にとって重要らしい。

『東京珈琲パンデチカ』は、コロナ禍という過去の出来事を振り返る機会をくれた。その経験から学ぶことで、未来の危機に対する備えを強化するのかも。

結論3: 技術と文化の共存

技術と文化が共存することで、新しい形のエンターテインメントが生まれる。

『東京珈琲パンデチカ』は、その一例としてデジタル技術を駆使して文化的背景を再現し、新たな価値を創造します。これで技術と文化が相互に影響を与え合う未来が見えるのかも。

結論3.5: エンターテインメントと倫理のバランス

エンターテインメントとしての箱庭ゲームは、現実の出来事を再現することで教育的価値を発揮するかもしれんが、その背後には倫理的な問題が存在する。パンデミックをゲーム化することは現実の痛みを軽視する可能性があるのかもしれない。今のところぼくはどうでもいい。

結論5: 新しい形の表現として受容

一方、箱庭ゲームは新しい形の表現として受け容れるべきだと。人々が仮想空間で現実で過去にあった問題に向き合うことで、より深い理解や共感を得る……のかも。このようなゲームは、現実の問題を解決するための一助となる可能性もある。

例えば『東京珈琲パンデチカ』が、プレイヤーにコロナ禍の体験をノスタルジーとして与えることで、社会全体が危機の記憶を共有し、未来の危機に対する備えを強化する役割を果たすことができるかもしれません。

結論6: デジタル社会における倫理観の変容

またデジタル社会において、現実の問題を仮想空間で再現することは新たな倫理観の形成に寄与する可能性があります。東京珈琲パンデチカのようなゲームが、プレイヤーに深い理解と共感を促すことで、社会全体が持つ倫理観の変容を促進するのかも。

箱庭ゲームが持つ可能性と問題点を考えると、エンターテインメントと倫理のバランスをどのように保つかが重要であるとか言えるのかもしんないけど、箱庭ゲーってそういうものだ。

コーヒーを淹れながら様々なお客さんと語り合ってコロナ禍の雰囲気や社会の変化を体験する中で重要なのは、ゲームがどのようにして現実の状況を反映し、プレイヤーに影響を与えるかという点です。

以上のように東京珈琲パンデチカのリリースはデジタルエンターテインメントのが現実の出来事をどのように再構築し、プレイヤーに影響を与えるかを考える機会なのかも。ゲームと現実の関係について深く考えるとまともじゃいられなくなるので、そんなことを気にせずに楽しもう。

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