太陽のゲインな不屈
久しぶりに陽のあたる時間に陽のあたる場所に出かけた。クロスバイクが趣味な気がするんだけど行くのも久々だった。ヘッダ画像をお借りしています。
別に遊びではない。平日に行っても良かったんだろうけど一般的に休みとされる日になってしまった。人が多すぎる。
温かいことはいいことだが、普段ぼくは上3枚来ているが今日は2枚で充分だった。実際その後歩いて別の用事をしに歩きで行った時も、上着の防寒性能を下げたうえで2枚で行った。
普段は上3枚に下も2枚着ていたのだから、変化である。それにしてもこのエアポケット時期に上に着られる衣装の短命さについてぼくは思う。なぜならすぐにもっと薄い地に取って代わられるからだ。
一般に休みとされる日には人が多い。ではそうでない日を狙えばいいのではないだろうか?これまでぼくはそうしてきた。今回、後で述べる理由からそうでもないかも、とは思ったものの、やっぱ休みとされる日にはできるだけ出かけないようにすべきだ。平日でも遊べるのにわざわざ土日に出歩く人とは、出会いを求めているのではないだろうか?出会いとは軽率な意味ではない、ふしだらな意味ではない。
結果的に土日のほうが人が多いから、それだけ外出の世界に巨大な集合知があることを意味する。ネットでも集合知は得られるかもしれない。それはTwitter全盛期みたいな頃に訳知り顔のインフルエンサー気取りみたいなのに言われてましたね(今は間違いなく全盛期ではなかろう)。
が、自分の身体を動かして体感しに行くと受け取る情報量が違う。何だっけ?読むのと身体で体験するのとで情報量が違うみたいな研究ありましたよね。ぼくはこの通りヴァーチャルの世界にしか存在できないのであまり関係がない。メタバースを例に出すなら、入場料の高い場所よりも、多少治安が悪くても無料で入れる場所が好まれ、結果的に人が多くなるのかもしれない。
流石にメタヴァースに逝ったことがないのでわからない。FacebookがMAU上げのためにカス以下のルッキズム煽りで栄養失調の子供を大量生産した内部文書を告発されて、あまりに情けなく哀れな起死回生を狙い、メタヴァースの旗手になろうと、同時にクソ以下のレッテルがついた社名を変えてやれとそれっぽい社名になった、ぐらいしか身近なメタヴァースについての情報がない。そしてもちろんぼくはFacebookなど触らない。
そう考えると、土日に出歩くことには一定の意味があるかもしれない。一言も誰とも話さなかったとしても、もしかしたらその日自分がやってしまった失敗を目の前で誰かがオンエアして、未然に自分の失敗を防げるかもしれない。もちろん自分がそれになる可能性もあるが……
じゃあ仮に、SNSを現在移動可能なメタヴァースとしてカウントした場合に、SNSで賛否が分かれる話題に人が集まることには意味があるのだろうか?ぼくは意味があるとは思えない。
闊達な議論が得られることを喜ぶ向きがあるかもしれないが、そんなものはただの言い争いで戦争でしかないのではないだろうか。SNS上では相手を二度と出現させないために、言葉を鋭利な刃物にして二度と出現させないようにする=殺す。
普通そんなことせずに、ブロック機能を使う。ここみたいにブロック機能がない(あるけど相手をブロックしても検索にいくらでもでてくるってのは機能していないのと同義だ)世界とは異形でしかない。つまりネット上では人を殺してもいい(自己にとって、自己視点にとって相手を機能不全にしてもいい)らしいが、現実世界では人を刃物で刺した段階でその人の人生は終わりだ。だから現実世界のほうが安全なのかもしれない。
久々に外に出ると、このようにわけのわからないことばかり思い浮かぶ。外の世界は、ヴァーチャルとは異なるリアリティを持っている。そこには画面越しでは得られない何かがある……とまでは思わないが、直接的な感覚や、人との偶発的な出会いから生まれる何かを求める人が多いのかもしれない。
しかしそれを求めて無計画に外出することは、現代社会の複雑さを考えると必ずしも賢明ではないかもしれない……とまでも思わないが、ぼくたちはいつも自分自身の中に答えを見つけている。いま書いているこのような意味がない文のように。