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「正義」なんて概念は単なるツールと化してしもうた

面白い学者の話を2つ聴いた。ヘッダ画像をお借りしています。

つまり二人の学者が出てくる。桂英史と布施琳太郎である。

桂英史に言わせれば今は端末社会であるらしい。つまりSNSとかに直結できる携帯を持ってるのが当たり前になっちまったということは、SNS使って当たり前だという。

こんな恐ろしい話あるだろうか。ああ、もちろん桂に同意するという意味である。SNSのアカウント持ってて当たり前だろ、と社会はぼくらに話しかけてくるわけだ。こんな恐ろしい話あるだろうか。

つまりそれは同調圧力ですよね。携帯持ってんだからSNSにだってお前がいるだろ、と。いないわけないよな、と。だからぼくもわざわざ個々のプロフィールでSNS持ってないっすとかいちいち言う。こんなこといちいちいう異常事態が他にあるだろうか?

レトロニム的にいえば逆にそっちが当たり前的になってきたんだから、それを受け容れないほうがおかしいみたいに言われるかもしれない。むしろぼくはそっちな気がしてきた……厳しい。きつい。

もうひとり、布施琳太郎に言わせればSNSのお気に入り機能とは資本主義的承認欲求であると。いやこれはもしかしたら書評者の捉え方だったかもしれない。

でもなぜお気に入りが資本主義なのかと考えたが、別に単位は金ではないわけである。お気に入りってあれですよ。いいねとかそういうアレですが、良いねという名前が気持ち悪すぎて、声に出すのが恥ずかしい日本語すぎて言えない。いわんやこのサイトのハート機能を哉。

お気に入りを押すと数字が溜まっていく。他社がお気に入りにしたい数だけ数値になって現れる。つまり数値の多寡が当該SNS内書き込みの価値を決めるということだろう。翻って─────その書き込みをした当人の価値をもその数値が決める……ということなのだろう。こんなに恐ろしいことはない。

ぼくはかつてその可視化を取捨選択させろ、と世間に問うたことがある。

その書き込み内容が正義であろうと悪であろうと、数値が高まった方が偉いなどという価値観がその資本主義の中で適用されたのであれば、ちょっとやばくありませんか?

何かを潰すための大義名分として正義という単語が使われる。最早溺れた子供を救うとかが正義ではないのだ。ぼくは溺れた子供を救うことが正義だと思ってるけど。そしてぼくは激流の中、溺れた子供を救う体力も気力も多分ないのだが。

この文を例に出すと、たとえば上のほうで言った携帯持っててSNSに直結してて当たり前だと思えない方がおかしいとこの文を叩く正義の材料となる。この文が悪だと仮定した場合になりますけど。

同時に、また上記のようにお気に入り数が多い奴を貶すなんてこの文は頭がいかれている、という文脈でSNS上の資本主義が正義の理由として使われたりすることが考えられるだろうか?

この2者が言いたいことは別にこういうことじゃないとは思うんだが、形骸化した正義……といいますか、都合よく利用されるためだけの語に正義が鳴ってしまった背景には彼らの指摘した部分がその下地となっている可能性について思いをはせずにはいられなくないっすか?

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