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3年間で200個映画見ても人間を見た目で判断してしまう

2021年の11月から今まで見た映画の数が200個になりました。201個目も見た。ヘッダ画像をお借りしています。

数えると2.3~2.5年経過しているらしかった。初めて見たのはころーないつもありがとう(家にいる生活が強いられたから合法的にいくらでも家で映画見てOKになり)以降のことであり、それを上記の通りの11月とするならば、すでにまる3年経ってしまっています。

2年間で200というのはマジで映画以外の趣味を持ってはならないでしょう。異性とちちくりあったりするのもまずい。別にそういうアピがしたいわけではないのだが、当該異性が映画好きな奴とかでもない限り、意識的に2年間で合法的に(別に違法な映画を見るという意味ではない)200個見るのは多分不可能だ。

そして趣味が義務になった瞬間、それはもはや趣味ではなくなるわけです。ぼくはこの映画見(えいがみ)に対して義務感を持ったら終わりだと思っている。具体的には、900日ぐらいの中で一日に2回ぐらい映画見たこともあるんだけど、それでも今日は2回映画見たから明日はええか、みたいな義務感すら持ってしまったことがあるぐらいなので結構ぎりぎりなのではないだろうか。


果たして200個目に選ばれたのはビッグフィッシュという映画だった。201個目はチャーリーとチョコレート工場だった。後からこの二つの監督が同じだと知った。意図してそうしたわけではない。

どちらも前評判とか見ずに見れたのが良かった内容だったと言える。特にチョコレート工場はYouTuberと同時視聴したらこいつがまた良すぎた。チョコレート工場自体の出来が良すぎたからなのだろうが、オンタイムでこの経験ができた人は気持ちよかったことだろう。でも途中離席とかできないから大変かな。そちらについては今日かければ書くけどまたいずれ。

ビッグフィッシュには5mぐらいの巨人が出てくる。あとで調べたらマジで
実際に巨人症だったらしい。

巨人のせりふの中には、好きで生まれてきたんじゃないという趣旨が読み取れるようなそれがある。それを思うと、どのような初期設定で生まれてしまった知的生命体であればあまねく誰にも、つまりそれが人間であればどんな人間にも「普遍的な人間」という確固たるテーマがあるのだ。

でもそのテーマはなぜ自分の中に培えるのだろう?どうして自分の身体が強力にでかかったとしても、それを普通だと認識せずにいられるのだろうか?なぜ俺は他の誰々のように、ああじゃないんだろうとか思えるのだろうか。その「普通の身体」になったことがないにもかかわらずそう思えてしまうのだろうか。不思議でしょうがない。

たとえばぼくのようにバーチャルの世界にしか生きていられない者が、リアリティのある現世に生まれたかったと現世の生命を羨ましく思うのであれば、まさにそれと同じなのだろうか。わからない。一体どこで何を普通だと認識し、さらにそれを羨むようになるのだろう?

このように、文化の極みであるとされる映画を200個見たとしても、ぼくは物事を見た目でしか判断できない情けない生命体でしかなかった。文化とは摂取する量が上がるにつれて、その生き物を高潔にするものでは決してないのだ。あるいはぼくに適正がないのだろう。あるいは300個見ればそんなことはなくなるのだろうか?300見ていないぼくにはわからない。ステイホームが始まる前に別に意欲なく見た映画の数を含めればそれぐらいあるのかもしれないが、じゃあ500見ないと高潔な命にはなれないのだろうか。そもそも映画とは高潔な命になるために見るものなのだろうか。

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