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私がパニック障害で倒れ、ぜーんぶ手放し、超シンプルな気づきに出会うまで

はじめに

この記事自体クッソ長いですし、リンクした記事も全て読むと恐らくとんでもない時間がかかります。

なので、「あ、なんか学びがあるかも」とあなたの直観もしくは感情が反応するなら(思考じゃなくてね)、ぜひこの記事をブックマークでもして、暇な時にポリポリ読んでみてください。

不思議なのですが、私のnoteを読むと「なんだか生きづらい・・・」「自分の人生を生きたい・・・」という人の内的変容が加速するっぽいです。

私がこうして自分自身の内的変容の全てを、包み隠さず晒してきたからなんですかね。変容を必要としている人の深いところに、なぜか何かが届くっぽいのです。

この記事を、このnoteを、あなたの人生のお供にしていただけると幸いです。

私は今、丸裸になろうとしている。(精神的にね。本当になったら捕まってしまうよ)

今までの人生で積み上げてきたものを、一度全て手放すことになろうとしている。

なんだろう、この運命のいたずらは。

ここに至るまで、本当に色々なことがあった。正直、精神的に辛いことだらけだった。

しかし私は、身体を壊してから、本当に変わった。周りにも言われるし、自分でもそう思う。(それはある人にとっては喜ばしい変化であり、ある人にとっては許せない変化であり、ある人にとってはどうでもいい変化だ)

では、私に何があったのか。どのようにして私は変わったのか。

その全てを記してあるのがこのnoteだ。

そしてこの記事は、これまでのnote記事を一度全て振り返り、私の変容プロセスを時系列でまとめてみようとする試みである。


私が倒れるまで(自慢)

最初は自慢から始めたいと思う(笑)

私が「社会的に」それなりに良さげな人生を送ってきたことを伝えるためだ。

  • 平均よりちょっと上の勉強をそこそこ続けて、私大理工学部に進学

  • 大学院に進学して、JAXAにて太陽電池の研究。学会表彰を二度受賞(うち一つは国際学会

  • 教育系大手企業に就職し、1年目から学習塾の新規開校責任者に。2年目で黒字化し、社長賞を受賞

  • ほぼ独学で英語話者に(英検1級・TOEIC905点・TOEFL iBT 100点)

  • プライベートでは、結婚・二人の子ども・家まで買っちゃった

  • 転職後、英語教育事業含め、数々の教育系新規サービスの立ち上げに携わる

  • コロナで大赤字だった事業を、V字回復で安定黒字化

  • それが評価され、社内推薦でキャリアアップのためのアセスメントを受ける

そんな、全てがうまくいっているように見えていた矢先・・・

私は、ぶっ倒れた。

ベッドから起き上がれず、もちろん仕事もできず、ただ座っているだけで自分が自殺するイメージが脳内で止まらなくなり、更なるパニックに襲われる。私の心身は完全に壊れていた。

そこで気づいた「枠」と「私」の関係。

自分が今まで生きてきた「私」とは、本当に自分が生きたい「私」だったのか?

私はただ、社会が作る「枠」に走らされていただけだったのではないか?

私は「私自身」すら騙し、直走っていた。

私は思った。

「もう体調が回復する、ということはない。私は変わってしまったし、変わらざるをえないのだ」

そこから私の、「枠」と「私」を抜けようとする壮絶な内的探究が始まる。

「枠」とは何か?「私」とは何か?どう抜けられるのか?

それから私は、「枠」と「私」について考えを深めていく。

そして、そんな「枠」と「私」から抜けるために、とことん自分と向き合う羽目になる。

自分の弱さ・闇・影といった無意識に眠る私自身と対峙していく。

それは生まれてからここまで蓋をして捨ててきた、あらゆる「自分」に出会い直すプロセスであった。

身体感覚から始める

私の内的探究の中で、最も大切な要素となったのが(そして今でも最も大切なのが)、「身体感覚」である。

私は仕事をする上で、頭があれば全ては事足りると思っていた。身体なんてものは頭が思考するための単なる付属品だと思っていた。

しかしこれは、身体への冒涜であった。根本から間違っていた。

私は「刀禅」と呼ばれる日本発のボディーワークにも取り組みながら、この身体感覚への気づきを増やし、徐々に自分自身の深いところから変容が起こるようになっていく。

ある時は、身体感覚を傾聴に用いた。職場の人間や保護者に対する傾聴で身体感覚を扱い始めた。

このあたりから私の内的探究で非常に大切な言葉となる、「質感」や「浸る」といった言葉が表れ出てくる。

悪を抱きしめろ

社会が作った「枠」を疑い始めてから、私は社会が作る「善悪」や、社会が生み出すあらゆる方向性に気づき、それを疑い始める。

ただ厄介だったのは、「善悪」というのは単なる思考レベルの話ではなかったということだ。

私の中の「善悪」は、自分の感情や無意識、身体感覚に深く刻み込まれていた。

だから私は、この「善悪」を自分の感情および身体感覚の深い部分から剥がす必要があった。しかしこれは、まるで痛みに耐えながら皮膚を一枚一枚剥がすような、心的負荷のかかる大変なプロセスだった。

こうしたプロセスを経て、私は一つ一つ、自分の「善悪」から自由になっていった。

この時期、フランスの哲学者であるジョルジュ・バタイユの作品と考え方に深く影響を受けていたことも、とても大事なプロセスであったと思う。(後述するが、この探究が最終的に、バタイユのテーマの一つであった「笑い」として結実するのは、実に興味深い)

そしてこの時期、「悪を抱きしめろ」という言葉に辿りつく。

私はこの「悪を抱きしめろ」というのを自身の現実世界で実践していた。

今までの自分だったら絶対に「悪」として退いたものに、あえて自分自身を放り込む。そんな試みを色々と行っていた。

これはひどく身体反応が出るほど恐ろしいものであったが、今振り返ると非常に価値のある試みだったと思う。

具体的な方法論として、本音の悪口を手帳に書きまくるなんてこともした。やれることはなんでもした。(これは誰でもできるライトな方法なのでオススメ↓)

途中、いくつかの神秘体験

元々私は、精神世界やトランスパーソナル心理学、瞑想、インド哲学(不二一元論)といった考え方への興味が強く、そういった理論や実践に約10年以上、慣れ親しんできた。

その中で、不思議な体験もいくつかしてきた。

特に身体を壊してからそんな体験がどんどんと顕著になっていった。

自分の思考を緩め、ただただ目の前にいる相手に自分の全てを浸すと、直観的な情報が得られ、相手の精神状態を言い当てることができたり、そのままそれを、思考を使わずに詩のような形で表現してみたりもした。

また、明らかに自分の常識を超えた身体感覚を得たりもし、それも詩として表現した。

こういった類の話は訝しる人もいると思うので(日本人は特にそれが顕著である)、書き残すか悩みもしたが、自分にとっては無視しがたい体験と出会いであるため、書き残すことにした。

先ほど挙げたバタイユ自身も、いくつもの神秘体験を経験しているようで、それを一冊の著作としてまとめているぐらいである。

ただ、私のnoteを辛抱強く読んでくれた方にはわかっていただけると思うが、私はどんな宗教教義、スピリチュアル概念、いわゆる「神」といった、私の外から与えられるいかなる絶対的・超越的事物も支持しない。

私が支持するのは、私自身が今この瞬間に経験可能であるこの身体感覚と、そこから演繹される思考のみである。(一方、身体感覚を無視した思考単独の観念や想念の類も支持しない。)

親から受けたトラウマと向き合う

私の「善悪」を強く、強く、形成したもの。それは私の「親」だった。

決して悪くはなかった私と親の関係性を、根本から問い直さなくてはならない時期がここから始まる。

そこでまず出会ったのは、常に私の胸にあった「固形物」のような違和感と、小学生の頃から私の根底に眠っていた「生きる」ということに対する虚無感であった。

この時期、私の中で思考と感情が完全に対立し、激しい内的葛藤を引き起こしていた。

そんな中、この胸の固形物の質感に寄り添いながら過ごしていると、私の中で奥底に封印していた思い出したくない記憶と感情が蘇るのである。

このあたりの時期は、本当にしんどかった・・・

しかし、徐々に私は、胸にある固形物が、まだ生きていることに気づき始める。そして、それを抑圧し続けた頭の思考も、実はひどく疲れていて、何も悪気はなかったことに気づき始める。

このあたりからは私は、頭部に宿る思考でもなく、胸部に宿る感情(トラウマ)でもない、もう一つの自己を立ち昇らせていく。

そしてその自己で、全てと向き合い、私が今まで自らで殺してきたあらゆる私を拾い集めると、決心を固めるのである。

ちなみに、この時期に私がどのような方法で自分と向き合っていたかは、以下の記事にまとめてある。

何度「私」を抜けたと思っても、それは新たな「私」でしかなかった

「私」

身体を壊して自分を苦しめていた何かへの気づきを深めてから、「枠」の中でロールとして機能する「私」は、私にとって大きなテーマであった。

そんな社会から作られた「私」を抜けたいと、私は自分の親との関係性含め、全てと向き合い、歩んできた。

親とのトラウマと向き合うというしんどかった時期を少し抜け、喜んだのも束の間、結局私は、また「私」が生み出す新たな問題に絡め取られる。

抜けたと思ってもそれは、新たな「私」を見つけただけだったことに気づく。

そして、この「私」が、結局人間が持つ原初の「枠組み」であることに気づく。

しかし、以下、色々気づきを文章でまとめてみようと試みてはいるが、結局それを書いているのもまた「私」でしかない。

概念として、なんとなく理想の状態を思い描いて「空っぽ人間」を書いてみるが、結局これも「私」によって作られた理想状態(新たな「私」)以外の何ものでもない。

つまりは、「私」を抜けようとするのも結局「私」であり、「私」を抜けた後の夢見る姿も結局「私」であり、「私」を抜けたと思い込むのも結局「私」であり、「私」を抜けたフリをするのも結局「私」であり、結局この原初の枠組みである「私」に見事に「私」は絡めとられていくのである。

「私」が「私」を抜けようとして、「私」は「私」を抜けたと思い込ませ、また「私」が「私」を絡めとる。

もうこの、どうしようもないくらいの「私」「私」「私」・・・

このあたりから、「私」は自分の思考の限界をついに認め始める。

(ああ、もう無理だ・・・)

そんな風に「私」がその力を緩め始めるのである。

「私」が緩まる。そして親・家族との新たな課題が表面化する

どこまでいっても「私」でしかなかったという事実を目の当たりにし、ついに「私」が諦め始める。

「私」が諦めるということは、思考が諦めるということだ。

「私」は、社会と自分の関係性から作られる。

「私」は「父」。「私」は「上司」。「私」は「夫」。「私」は「私」。

それは常に、社会の中で生まれる「こうあるべき」という思考によって作られる「私」というロールなのである。

そんな「私」が、どこまで「私」を抜けようとしてもそれは新たな「私」でしかないという現実を目の当たりにして、「私」は「私」を諦め始める。

このあたりから、心理学コミュニティのメンバーに自己開示をする際、あえて私は横になって話すようになる。

その方が「ちゃんとした『私』を見せよう」という思考が緩むからだ。

思考を緩め、私は微睡む。その中で、沸いて出てきた言葉を、ただ紡ぐ。

なんの意図もなく、なんの作為もなく、自分がどう見られようと、自分がどう思われようと関係ない。

そうして私の記事には、「自分」という言葉が多用されるようになる。

以下の記事なんかは、今までの記事とは明らかな質感の違いが見受けられる。

「私」が諦め始め、「思考>身体」だった私の優先度が、徐々に「思考=身体」、そして「思考<身体」に移り変わっていく。

思考で語ることなく、身体で語る。

身体に耳を傾け、身体に寄り添い始める。

そんな変化だ。

2023年で最も辛い時期。そして起こった内的融和

上の記事はこう始まる。

数ヶ月に及ぶ、私の内的闘争が一つの終着点を迎えたように思います

「私」を抱きしめ救いあげたのは「私」自身だった(2023年6月3日時点の「私」の傾向性)

今までどこかで「どうせわかってくれない」と諦め、本当の気持ちを打ち明けることすらしなかった肉親および家族との関係性。

私は彼らに、全てを、さらけ出すことにした。

しかしそこで起きた結末は、「最も近いはずの『家族』という存在は、全く『私』を受け入れてくれない最も遠い存在だった」という出来事だった。

今まで必死に願い、すがり、期待していた存在だった「親」と「家族」。

その存在への私の全ての期待が打ち砕かれ、私は、文字通り「独りぼっち」となり、文字通り「絶望」した。

私は彼らを拒絶した。勇気を出して、拒絶した。

最も近い存在を拒絶した私は、自分自身の態度に自信が持てなかった。

「自分が間違っているんじゃないか?自分がおかしかったです、と伝え、なかったことにしたほうがいいんじゃないか?」

そんな風に不安すら感じていた。

その時は、夜の街を歩いていると眩暈さえして、足が地についている感覚さえしなかった。

34年間、どこか自分の根底で拠り所にしていた「親」そして「家族」。

ここまで必死に追い求めていた「親」や「家族」という姿は、結局私自身が作り出した幻想でしかなった。

そして、微睡みの中、信頼できる人に全てを打ち明けていた時、以下の言葉と共に、私の中で内的融和が起こる。

「ただ、抱きしめてほしかった。あたたかく、やわらかく、優しく、包み込むように、抱きしめてほしかった」

「私」を抱きしめ救いあげたのは「私」自身だった(2023年6月3日時点の「私」の傾向性)

そして「私」の思考(インナーアダルト)が、初めて私の身体(インナーチャイルド)に謝った瞬間、私は死ぬほど号泣した。

「本当にごめん。今まで散々いじめてきて、本当にごめん。本当に申し訳ない」

「私」を抱きしめ救いあげたのは「私」自身だった(2023年6月3日時点の「私」の傾向性)

私は私に謝り、同時に私は私に謝られた。私と私が、私の中で、抱き合った。

この瞬間、私の身体感覚が変わる。

孤独、絶望、どこか宙に浮いた不安定な状態から、私は私自身を抱きかかえ、落ち着き、安心へと至ったのだった。

この経験は、私にとって決定的なものだった。

なぜなら、「自分を救うために必要なのは、自分自身だけであり、また自分自身を救えるのは自分しかいない」という事実に気づいたからである。

こうして私は、自身のインナーファミリーへの依存にある程度終止符を打つことになる。

この後、現実世界でも、自分を苦しめる家族とは距離が開き(もしくは、こちらから意図していなかったのに家族の側が変化し始め)、私の内的世界とリンクする形で現実世界も不思議なほどに落ち着いていく。

内的融和が起きた後、ずっと私の首に繋がれていた太くて重い鎖が断ち切れた感覚だった。

今まではこんなに太い鎖につながれていたことにすら気づかなかった。それが私にとって、普通の状態だったからだ。

しかしこうして鎖が断ち切られて初めて、自分がいかに拘束され、不自由で、苦しかったのかを知る。

ただ、「自分を鎖で繋いで不自由にしていたのも、結局は自分自身であった」という気づきもしっかりここに記しておきたい。

全ては「自分」だったし、これからも常に「自分」である。

ただもちろん、内的融和をしたからといって全てが解決するわけでもなく、私は34年間の人生で自分にこびりついた自分の傾向性に一つ一つ気づきながら、それを解いていく。

ただ明らかに今までと違うのは、「内的融和」の体験を拠り所としながら、常に思考よりも身体感覚を優先してあげられるようになった、という点だろう。

そして以下の記事からも、自分へのメタ意識(自らの意識を俯瞰して意識するもう一つ上位の「意識」)の発達が見受けられる。

空白の1か月。そしてテーマは「委ね」へ

振り返ると7月は唯一、note記事を一切書かない1か月だった。

その期間私は、心理学の勉強をしながら、これまで自分に起きたことを心理学的な見地から捉え直そうとしていた。

ゲシュタルト心理学、フォーカシング、マインドフルネス、認知行動療法などなど・・・

このあたりの本を読み漁り、ワークショップにも参加し、そこから得られた学びについて知り合いの心理士からアドバイスをもらいながら、自分なりの理解を深めていった。

そしてこの時期から、私の中のテーマが「委ね」という言葉に集約されていく。

親・家族との内的葛藤は融和したものの、「『私』を抜ける」ということそれ自体に対しては、しっくりくる感覚がまだ得られていなかった。

「『私』を抜けよう」とすること自体、手放し、全てを委ねる必要があるのではないか?

そんな風に考え始めていた。そしてその内的な状態を、現実世界での態度にも少しずつ表明し始め、改めて自分の現実世界の整理を始める。

しかし、この「委ね」が、一つの気づきに辿りつくのは、もう少し先の話となる。

幼少期に閉じ込めた原初の「怒り」と出会う

この時期、仕事で腹立たしいことが起こる。そして私は、「怒り」という感情と向き合うことになる。

今までは頭部の思考と、胸部のトラウマ(胸の固形物)の間での葛藤だったが、私の身体意識は「怒り」という形でより下腹部(丹田のあたり)に向かうことになる。

「気持ち悪い」「ふざけんな」「おれを不快にさせんな」

そんなドロドロとした、理由なき嫌悪と憎悪が沸き起こり、それを一つ一つ自分と統合していく。

こうして私は、恐らく幼少期の記憶と共に奥底に閉じ込めた(私は幼少期の記憶がほとんどない)原初の「怒り」を抑圧することなく流し出すことができるようになっていく。

このプロセスで怒りや嫌悪自体は徐々に落ち着いていくものの、このタイミングで私は、自然と今の会社から完全に離れることを決意する。

「なんでもいいんだよ。だってみんな、ただ生きてるだけなんだから(笑)」

さて、「私」との闘争も、ついに最終章を迎える。

身体を壊してから、「枠」と「私」の関係に気づき、それを一つ一つひっぺ剥がしてきた。

「『私』から抜けたい」

この一心で私は無我夢中で自分の内的世界を探究してきた。

しかしここで私は、ある本の力も借りながら、もっともっと根本的な問いに導かれていく。

「『私』なんてもの、そもそも元から存在していなかったのでは・・・?」

身体を壊してから散々お世話になってきた心理学コミュニティに対する自分のスタンスも変わってくる。

いやむしろ、私の身体のスタンスが変わっていった。

このコミュニティと接すると、自分の身体が不調をきたすようになったのだ。

私はここまで、このコミュニティのおかげで、自分の身体を大切にする態度を学んできた。そして自分の身体を大切にする態度を学んだ結果、このコミュニティに対して身体が不調をきたすことが見えてきた。(なんとも皮肉な話だ)

そうした「『私』を抜けよう」ということそもそもに対する疑念、そして明らかに不調という形で反応を示す私の身体。

そういった内的および外的世界の変化から、私は「『私』からの卒業」を決意する。

ここでついに、私は「委ねる決心」をしたのだと思う。

「私」を抜けるかどうかも手放し、全部委ねる。

ただ、単なる決心だけでは終わらなかった。

この時期、私はどこからともなく襲われる「纏わり」の身体感覚に悩まされていた。

連日悪夢にうなされ、この「纏わり」の身体感覚が襲ってくるとパニックに陥った。

しかし、ある人がたまたま投げかけてくれたある言葉が啓示として、私の下腹部にクリーンヒットする。

それは、「なんでもいいんだよ」だった。

それは投げやりな「なんでもいいんだよ」といった質感の言葉ではなく、

「どんなあなたも受け入れるから、なんでもいいんだよ」といった質感の言葉だった。

そして私はこの言葉を頼りに、「纏わり」の身体感覚と向き合う。

いや、向き合うという言葉すら適さない。

ただその「纏わり」と一緒にいて、その「纏わり」と馴染んでいく。

その時だった。

私の身体は、笑った。

私の身体は、私の意図を超えて、高らかに笑ったのだ。

いや、私が笑ったのではない。

笑いが私を通して起こったのだった。

「おい、なんだよ。みんな、ただ、生きてるだけじゃん(笑)純粋に、みんなただ、人間やってるだけじゃん(笑)」

文字通り、私は笑ったのである。

そうして私は、自分を散々パニックに陥らせていたこの「纏わり」の身体感覚とすら馴染めることを知り、そして馴染んでしまえばそれは何の問題もないことを知った。

問題など、なにもなかったのだ。

問題がなければ、解決も答えも、必要ない。

私も、あの人も、あの人たちも、いかなる概念も、いかなる意味も目的も、ただただ、生きてる。関係性の中で、部分として「生」を織りなしてる。それだけだったのだ。

全ては、今この瞬間のこの状態で、もうなんでもいいのである。

これは投げやりなのではない。

あらゆること、善も悪も、問題も解決も、喜びも悲しみも、憎しみも愛も、幸も不幸も、生も死も、それらはそのままの質感で、私と馴染み、私と溶け合うことができる。

それを身体が知ってしまえば、もうなんでもいいのである。

だってみんな、ただ生きてるだけなんだから(笑)

この「馴染む」という身体感覚は、今の私にとても大きな安心感を与えてくれている。

そして私の世界は、この気づきの後、驚くほど静かで、軽やかだ。

ここに私を連れてきてくれた、全ての人と事象に、感謝である。

ただただ、生きる

この人生、私に残された仕事。

それは、「ただただ、生きる」に尽きる。

もうそれ以上もそれ以下もないのである。

いやずっと、本当はそれしかなかったし、今この瞬間もそれしかないし、これからもずっとそれしかないのである。

私はこれからも、喜び、怒り、悲しみ、苦しむ。そして、死ぬ。

でも、それが「生きる」ということだ。それでいいのだ。

私はもう、「生きる」から逃げる必要がないことを知っている。頭だけでなく、全身で知っている。

だから私は、「ただただ、生きる」のである。

このnoteが、あなたが「ただただ、生きる」手助けにもしなるのなら、私は心から嬉しい。

ここまで読んでくれて、本当にありがとうございました。

ちなみに、もしあなたが直観的に、「このnote、あの人が興味持つかも」と思いつく人がいたら、私への確認などなしに、好きなようにシェアしてくれてぜんぜん構わない。

ここまでの変容と気づきは、「私がした」のではなく、「私を通して起こった」という感覚であり、そういう意味では私のものではなく、みんな(生命そのもの)のものである。

なので、あなたにもこのnoteを自由に使う権利があると私は思うのだ。

そう、それは、芸術家アンリ・マティスが、以下のように語った感覚に少し近いかもしれない。

いまも続く探求の果てに私が選んだのではなく運命によって選ばれた仕事である。

This is not a work that I chose, but rather a work for which I was chosen by fate, towards the end of the course that I am still continuing according to my research.

アンリ・マティス 1951
Henri Matisse

私とはまた違った形の変容と気づきが他の誰かを通して起こるとき、このnoteが少しでもその変容と気づきそれ自体の助けになるのなら、私は心から嬉しい。

そしてそれは、気づき自体が、新たな気づきの可能性を喜んでいるとも言えるのだ。そうそれは、「あなた」を通して。

おしまい。

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