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『私』からの卒業と、スピリチュアルマテリアリズム(2023年9月18日の『私』の傾向性)

『私』からの卒業。

なんか、尾崎っぽいタイトルじゃないですか?笑

ほんと、色んなことがありますよね。こんなに内的にも、外的にも忙しない1年間は、35年目にして一番な気がします。

さて、昨日は、ちょっと眠れなかったです。

色々思うこともあって、考えることもあって、精神的にくらうこともあって。

まあ思考が始まると眠れなくなるのは、いつものことなので、あまり気にしてはないですが。

今こうして、眠いけど元気にPCに向かえているわけですから。

その中で、3つの気づきを得たので、文章としてまとめてみようと思います。

まず、一つ目。

私たちの原初であり、そして最後の枠組みは『私』という自意識だと思います。

「その枠、超えよう。」というCommunity Purposeで私は新しい事業に挑戦しようと思っているわけですが、最初にオチを言ってしまうと、

「枠なんてなかった」ということなんだと思います。

『私』と、『枠』の関係。

そもそもこれは、私たちの個人的意識、記憶、観念、想像、思考と感情とシャドーが絡み合った防衛的ストーリー、そういったものの束のようなものなんだと思います。

そしてこれは、頭で理解するのでなく、身体感覚として直観的理解ができるか、という点が肝なのだと思います。

さてさて、私は、身体を壊してから、ある心理学の集いのようなものに参加してきて、『私』というものにとことん向き合ってきました。

向き合った理由は、「じゃなきゃホント死ぬ」ということだったのだと思います。

なぜなら『私』は、『私』に殺されかけていたからです。

『私』が『私』を飲み込んできた。

そして、本当に死にかけた。

久々にスマートフォンのメモ帳を整理していたら、身体を壊したときの自分の症状がメモとして残っていました。

  • 目眩、頭痛、だるさ、疲れやすさ、肩こり、尿漏れ、下痢、ほてり、不安感。ひどくなると、息苦しさ、胸の苦しさ、手汗、強烈な不安感と恐怖感、視界が見えなくなる、外界の現実感がなくなる、このままだと倒れるという発作のような感じ。ただ座っているだけで自殺するイメージが止まらなくなる。

  • 外出や電車などへの恐怖心(長時間外に出られない、電車に乗れない、食事会に行けない)

  • 症状が悪化する時は以下の通り

    • やらなければいけないタスクがある、多いと感じる時。連絡ツールからたくさん連絡が来る時

    • 気を使う人と話さないといけない時(オンラインでも)

    • 仕事の連絡ツールを見る時

    • PC、スマホで長時間作業する時(特にPC)

    • 窓を開けた時、外出時、光が強い時(日の光、照明、パソコン)

    • 無理をして頭を使った時。未来の不安を想定して思考を巡らせる時

    • ここ数日の辛かった瞬間を思い出す時

    • 知らない人に囲まれる時(一番ひどい。電車、床屋)

これを見返すと、今は嘘みたいに元気ですが、ほんとただ事じゃないことが私の中で起こっていたんだなと改めて思います。

だから『私』は、『私』から逃げ出るために、文字通り、死に物狂いだった。もうこの道しかなかった。

だから周りから「ほんとすごいよね」と言われるような熱心さとペースで『私』と向き合った。

なぜか?

その理由は、「じゃなきゃ死ぬ」である。

まずここで思うのは、『私』は『私』自身に殺されかけない限り、本当の意味で『私』を抜けようと決意することはない、ということ。

私が体調を崩す前に、どれだけ熱心に人が「そのままだと倒れるよ」とか、「そのままだと大変なことが起きるよ」とか、どれだけ偉くて崇高で神聖な人が「生き方を変えなさい」と言おうが、私は決して聞く耳を持たなかった。

むしろそういった人たちすら利用していたことだろう。

ここに隠れているのは、スピリチュアルマテリアリズム(精神の物質主義)という罠だ。(精神の物質主義って和訳はどうなのと思いますが・・・)

つまり、本当に『私』が『私』自身に殺されかけない限り、どこかで『私』は、「『私』を抜けたい」といった意図すら利用し続ける。結局そういった探究的営みすら、『私』が自らを肥やし、『私』を増長させるために使ってしまう。それがスピリチュアルマテリアリズムの罠だ。

なぜ、『私』はそこまで巧妙で、狡猾なのか。

それは『私』がまだ限界を迎えていないからだ。なんだかんだ『私』が元気だからだ。

人はどこまでいっても、安定を選ぶ。今までと同じ道、よく知っている道を選ぶ。そのためには何でも利用する。

それは別に悪いことではない。それが『私』の機能であり、『私』の存在意義ですらある。

だからこそ、『私』に殺されかけ、『私』を生きる道が完全に閉ざされない限り、結局全ては『私』の中に絡めとられ、『私』は増幅、強化を続ける。

そしてそれは、どれだけ「『私』を抜けよう」と無私に見える意図だとしても、その無私であることすらを利用して、『私』は『私』を強化する。

結局、「『私』を抜けたい」のも、『私』でしかないのである。

つまり、「『私』を抜けよう」とする意図そのものが『私』の餌となるのである。(スピリチュアルマテリアリズムの罠、恐るべし・・・)

これがまず一つ目の気づきである。

では、どうすればいいのか。

そもそも、『私』とは何なのか?

それは本当に実在するのか。

記憶がなくなれば、『私』はいなくなる。

熟睡すれば、『私』はいなくなる。

認知能力が低下すれば、『私』はいなくなる。

そもそも、生まれた時、『私』という自意識は存在していなかった。

生まれ育つ中で、私たちは外界と『私』を区別し、他者はその人自身と『私』を区別し、『私』は『私』を『私』として扱い、他者に『私』を『私』として扱われることで、『私』は『私』を『私』として認識し始める。そしてその前提を疑うことはまずなくなる。

その『私』というイメージは、状況やコミュニティ、ライフステージによってコロコロ変わる。

この『私』とは、何なのか。

そんな『私』に私たちは、必死にしがみつき、こだわり続ける。

そこまで『私』が大事にする『私』とは何なのか。

『私』とはだれか。『私』とは何か。

そこへの思索が深まったときに、ふとあることに気づき始めた。

『私』なんてもの、初めからなかったのかもしれない。

確かに『私』という自意識は存在するが、それは本当に原初からここに実在する確固たる何かなのだろうか。

それはまさに、夢の中の『私』となんら変わらない、記憶や想念、文化的社会的背景によって作られた『私』でしかないのではないか。

そう考えた時に、ふと、ある矛盾にぶち当たる。

『私』がそもそも存在しないなら、『私』を抜けようとしているのは、果たしていったい誰なのか?

この問いが生まれ、これに答えようとするとき、全ては、消えてなくなってしまうのだ。

ここで二つ目の気づきが生まれる。

抜けるべき『私』も、そこから抜けようとする『私』も、そもそも全て妄想で、そもそも一度も実在していなかったのかもしれない、ということだ。

さて、最後の気づきである。

では、そんな中、『私』にできることは何なのか。

『私』が暴走し、『私』自身を殺そうとしない限り、本当の意味で『私』が『私』で在ることを諦めることはない。(そうじゃない中での自己探究は、スピリチュアルマテリアリズムに陥る危険が常につきまとう)

そして、たとえそうだったとしても、そもそもそんな『私』は記憶や妄想の産物であり、抜けるべき『私』も、そこから抜ける『私』も存在しない。

となると、つまりは、『私』に何ができるのか?

何もない。

諦めるだけである。(ガビーン)

ただ、在るだけである。

もうこれ以外、何もできることはない。

『私』が『私』を殺そうとするかどうか、そして『私』が『私』という虚構に気づくかどうか、それは『私』の範疇を確実に超えている。(『私』がそれをしようとする限り、『私』が強まるだけであるから)

何かを意図しようとするのも、何かを求めて努力しようとするのも、全て『私』でしかない。

どこまでいっても『私』なのである。

となると、結局は全てを、諦めるしかない。「諦める」という意図すら、諦めるしかない。

諦め、委ねきること。

「諦め、委ねきること」すら、諦め、委ねきること。この二元論の正体を暴くこと。

もうこれ以上語ると、どこまでも『私』に絡めとられるのでこれぐらいでやめようと思います。

そんな気づきで、私は昨晩寝れなくなったわけですが、『私』は『私』から一旦卒業し、この『私』と向き合い続けることを支援し続けてくれた心理学コミュニティからも抜けようと思っています。(本当に多くの気づきと変容をありがとうございました。)

本当に、忙しない1年。

全て諦めいくなかで、自然と紡がれていくこの人生の先には果たしてどんなドラマが待っているのでしょうか。

そうほんと、全ては単なるドラマでしかないのかもしれない。(ただ、まだここを全身で直観しきっていないのが、今の『私』でもある)

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